監獄の廃監とその後の月形-2 地名に残る月形のあゆみ

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

監獄の廃監とその後の月形-2 『地名に残る月形のあゆみ』

月形町景色

 1953(昭和28)年、月形村は町制施行によって月形町となりました。歴史ブログの最終回はまず、中心市街からはずれた町内の地名を入り口にしてみます。ほかの多くのまちに見られるように月形でも、地名から土地の歩みが見えてくる地区が少なくありません。代表的なものをいくつかあげてみましょう。


 明治中期から昭和にかけての特筆すべき産業として、亜麻の栽培と加工があげられます。舞台となったのが麻生(あざぶ)地区です。


 当時月形とその周辺では広く亜麻が栽培され、麻生では帝国製麻月形亜麻工場が操業をはじめました。村の産業の大きな柱となる大工場の誘致には、このブログで何度も登場する、海賀直常(樺戸集治監初代典獄月形潔の腹心の部下)らの尽力がありました。そして工場の一帯に、今日に残る麻生という地名がつけられたのです(工場は1965年に閉鎖)。


 この工場は亜麻の茎から繊維を取る製線工場で、当別や北村、浦臼、新十津川、遠く留萌方面からも亜麻が大量に集荷されました。一次加工された亜麻は、石狩川の水運を使って札幌の製麻工場に出荷され、布に紡がれていきました。亜麻は、幌や軍服など、軍隊で厖大な需要があったのです。主な働き手は女子工員でしたが、厚田方面の春のニシン漁が終わると集まってきたヤン衆(雇われ漁師)たちもいたと言います。


 札比内(さっぴない)と晩生内(おそきない)の中間にある新宮も、歴史にちなむ地名です。1919(大正8)年に樺戸監獄が廃監になると、広大な所有地が払い下げられたことは前回述べました。このうちホロタッツナイ川の水系を中心におよそ1000町歩(約992ヘクタール)を買い受けたのが、小樽に本社を持つ林産企業、(株)新宮商工でした。新宮の地名はこの会社名にちなみます。


 一帯の立木とともに広大な土地を得た同社は、ホロタッツナイ川沿いに木工場を建設して、製品は石狩川を利用して江別に、一部は陸送で美唄に出荷されました。しかし5年あまりで森を伐りつくしてからは、事業を農場経営へとシフトさせます。農場は水田と畑からなり、水稲試験地の造成や品種改良などに取り組み、小作人たちは、冷害による不作に苦しみながらもやがて成果をあげていきました。また農場内には、ドイツトウヒやトドマツなどからなる造林地が広げられました。


 戦後の農地改革を受けて、1948(昭和23)年には農地が小作人59名に解放されました。


 石狩川沿いの月浜地区は、1945(昭和20)年8月3日、空襲で横浜を焼け出された人びとが入植した土地です。月形と横浜を合わせて「月浜」と名づけられました。この年、戦火で首都圏や大阪などで住む家を失った人びとは、拓北農兵隊として北海道に渡りました。その数は1万7千人にのぼるといわれます(『開拓農民の記録』野添憲治など)。広い北海道といえども開拓適地はもう残っていなく、入植地は農耕に不適の篠津原野のまっただ中。想像を超える苦難の日々が続きました。生活の厳しさのあまり、ほどなく去って行く家族も少なくありませんでした。


 月浜の下流、昭栄も戦争がもたらした入植地でした。移り住んだのは、樺太や満州から引き揚げてきた人びとです。1950(昭和25)年、人びとは投票で土地の名前を決めました。戦争がようやく終わり、これからは昭和の本当の繁栄がはじまる、という希望を託したものでした。


 離農者を多く出した泥炭地である月浜と昭栄での農業が軌道にのるには、大きな基盤整備が必要でした。それが、世界銀行の融資を受けて戦後北海道史に特筆される、篠津運河掘削の大工事です。


 敗戦によって海外の植民地を失った日本にとって、北海道は重要な食糧基地となりました。泥炭地を大穀倉地に変えるべく1951(昭和26)年から大規模にはじまった篠津の土質改良事業では、主要排水路として巨大な篠津運河が掘られ、月形にも石狩川頭首工(石狩川から運河への導水施設)や揚水機場、幹線用水路などが作られました。これにより昭和40年代、月形の農業生産力が大きく進展していくのです。


 月形での酪農は、1930(昭和5)年に北海道製酪販売組合連合会(のちの雪印乳業)の月形工場が開設されて本格化していきます。1953(昭和28)年には明治乳業月形工場が創業。ふたつの工場の集乳によってまちの生乳生産も増大しましたが、やがてメーカーの生産効率化の流れのなかで、1963(昭和38)年には明治乳業が、その翌年には雪印乳業が撤退のやむなきにいたりました。

稲穂

 1961年、北海道は新潟県を抜いて米の生産高日本一を記録します。この60年代、道内では造田も進み収穫量はさらに伸びていきますが、70年代に入ると国の政策により、全国で生産調整がはじまりました。作れば売れた時代の終焉です。


 多くのまち同様に月形でも米に替わる農産物への模索が重ねられました。その中でとくに力を注がれたのが、花き栽培です。さらにメロンやスイカ、トマトなどの果菜栽培も、各農家が意欲と挑戦心をもって進められました。その流れは今日までいきいきと続いています。


 また樺戸集治監を原点としたまちの成り立ちをあらためて読み換えていくように、1973(昭和48)年には月形少年院が設置され、1983(昭和58)年には、東京都の中野刑務所の廃庁に伴い、月形刑務所が開庁となりました。


 今日の月形は、豊かな自然とユニークな歴史を背景に、農業に加えて「矯正のまち」としての顔も合わせもっているといえるでしょう。