月形の村づくりと囚徒の生活

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

月形の村づくりと、囚徒の生活

 大井上輝前 おおいのうえてるちかのあと第4代の典獄として東京監獄から赴任したのは石澤謹吾いしざわきんごです。
 石澤は1830(天保元)年、飯田藩士(長野県)の家に生まれました。1895(明治28)年の夏に月形に来たときにはすでに66歳。幕末からの長い仕事キャリアの仕上げに当たる時期でした。
 石澤は若くして家老職で藩政に関わり、飯田藩大参事となります。明治の世に至って1875(明治8)年には警視庁一等警視に。そののち鍛冶橋監獄(のちの東京監獄)の初代署長を務めます。西南戦争(1877年)では警視隊の運輸部長として経理の手腕を発揮。その後警視庁監倉署長となり、西南戦争がもたらした多数の国事犯を収容するために計画された宮城集治監(1879・明治12年開庁)の立ち上げを率いて、初代典獄に就任しました。 1882(明治15)年からは東京監獄典獄を務めていました。


 石澤が樺戸に着任した年は、日清戦争で日本が勝利をおさめた年。月形からも兵士が出征していましたが、彼らが帰郷すると石澤は、現在の皆楽公園の一角にあった集治監の社交施設である階楽亭で祝賀会を催します。
 典獄は集治監の耕地や官舎を再整備して、焼失してしまった小学校を、資材の調達から関わって再建。防風林地を民間に払い下げて工業の振興を図ったり(のちに帝国製麻月形亜麻工場が進出)、囚徒たちが拓いた農地のうち100ヘクタールあまりを一般に開放して農業生産の拡大をめざします。さらに囚徒の中の棟梁や大工経験者を集めて、大谷派末寺の円福寺の本堂(七間四面)を建立。特段の能筆であったため、浄土教の教えから取った「速満足」という掲額の書を贈りました。先代の大井上典獄がクリスチャンだったのに対して仏教に深く帰依していた石澤は、階楽亭を円福寺の庫裏くりに払い下げて移設させました。また須部都橋のたもとに競馬場を、円山に公園と運動場を建設するなど、集治監にとどまらずに村のインフラの積極的な整備に努めています。


 月形の農業を大きく進展させたのも石澤でした。樺戸集治監では初期の段階(1884年)から水稲の試作に取り組んでいましたが、成果をあげるには至っていませんでした。一定の収穫が可能になったのは、石澤典獄の時代です。彼は栽培技術を確立させた上で監獄耕地に300ヘクタールあまりの水田をつくり、米の増産をめざしました。さらに石澤は民間にも米づくりを奨励するために、灌漑溝の測量と設計を開始。その後まもなく樺戸を退官して司法省本省へと栄転になりましたが、本省でもその予算を実現させるために尽力します。月形地区に灌漑溝ができたのは、彼の働きかけのたまものだったのです。
 石澤は1902(明治35)年に司法省を退官。東京小石川で余生をおくり、1917(大正6)年に死去。監獄と司法の世界を歩んだ88歳の長寿を全うしました。


 石澤典獄の時代。在監囚の数は、明治29年の1561人が最大で、同33年の834人が最少となっています。このころの集治監の生活を説明しましょう。
 囚徒たちの生活スケジュールは、日の出日の入りの時間によって変化しています。最も早く起きるのは、6月、7月の午前4時。午前5時にはもう労役がはじまり、あいだに短い昼食を挟んで、夕方4時半に終了。服役時間は10時間半に及びます。夕食をとって夜8時には就寝です。最も日の短い12月では、午前6時40分起床で7時40分から7時間の服役。5時20分には就寝となります。
 主食は、米と雑穀(麦・粟・稗)4分6分で、最も重い就労につく者には1日8合が支給されました。副食は1品。塩鮭、干ニシン、馬鈴薯など。これに沢庵や味噌汁がつきます。しかし昼食の副食は、もっぱら沢庵のみでした。また褒賞の制度があり、働きの良い者には夕食に塩鮭の切り身などが追加されました。
 獄衣は全国の監獄共通で、単衣ひとえ長衣ながぎぬ、股引、足袋、帯、手ぬぐい、下帯、手カイシ(手袋)などが貸与されましたが、すべて真っ赤なもの。これは、脱獄して隠れても囚徒をよく目立たせるためでした。冬期の月形は本州の監獄とは比べものにならない寒さですから、上記に加えて防寒のために、帽子、手袋、足袋、雪覆ゆきぐつ、脚絆が貸与されました。
 規則を良く守り作業の実績を上げると、上衣の左袖の肩と肘のあいだに浅葱色の布が縫い付けられ、これがあると衣類や寝具には良品が貸し出されるほか、入浴の順番が早まったり、作業の軽減、米の割合の増量といった待遇が受けられたのです。入浴は、6月から9月までは5日に一度、10月から5月までは10日に1度で、脱衣から入浴、着衣まですべて看守の号令のもとで、全員に同じ動作が強いられました。

 ケンカから脱走まで、獄内の生活にはトラブルや事件がつきものでしたが、それらにはさまざまな罰則がありました。軽いものでは、まわりから隔離された独居監房に入れられる「屏禁へいきん」や、「減食」。濡れた皮や麻の責め具が体温で乾いてくると縮んで胴体を締め付ける「搾衣さくい」、狭く暗い部屋でただじっと座っていなければならない「暗室謹慎」など。脱走を図った者には、見せしめに足に「鉄丸てつがん」がつけられました。ひとつの重さが1貫(約3.75kg )あり、重い刑ではこれが両足にひとつずつ、1年間にわたって付けられます。映画やドラマなどではこの鉄丸をつけたまま道路開削かいさくなどの労役に苦しむ囚人が登場することがあります。しかしそれでは作業がはかどりませんから、現実には鉄丸は監獄に入っている時間だけに付けられたものでした。

石澤謹吾
 石澤謹吾