灌漑溝と北漸寺本堂を作った長屋又輔典獄

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

潅漑溝と北漸寺本堂を作った長屋又輔典獄

 米づくりがようやく軌道に乗った第4代典獄石澤謹吾の時代。 1899(明治32)年7月には、月形村から浦臼村(現在の浦臼町)が分村しました。もともと浦臼方面の開拓は、1887(明治20)年に囚徒たちの手で晩生内おそきないまでの道路が開かれたことではじまったもの。一帯には豊かな森があったため、囚人たちは木材の伐採や炭焼きなどに従事し、集治監ではまず晩生内派出所を、ほどなくそこを廃して札比内さっぴない派出所を設けて看守と囚人の一部を移しました。


 1892(明治25)年には、晩生内の土地約150万坪を、新潟から入った開拓結社「北越殖民社」に貸し与え、そのほかの移民に対しても晩生内への入植をすすめました。ちなみに1886(明治19)年に設立された北越殖民社は、のちに野幌原始林東の開墾に取り組み、成功を収めた代表的な開拓移民団のひとつに数えられることになりますが、当初移民たちが挑んだのは、集治監が開墾した知来乙ちらいおつの地でした。ここで彼らは大規模自営農業を試みましたが、ほどなく撤退しています。当時の月形は、やはりまだ農業にはきびしい土地だったのです。


 明治30(1897)年ごろには、浦臼地区は囚人が放免後に入植する土地としても見なされ、放免囚20戸あまりの集団入植が行われました。こうしてしだいに農業が盛んになってきた時代に就任したのが、第5代典獄の長屋又輔です。長屋の在任は1901(明治34)年10月から1910(明治43)年3月までで、歴代8人の典獄の中で最長となりました。樺戸集治監は幾たびか名称が変わっていますが、長屋が赴任したときは「北海道集治監樺戸本監」で、1903(明治36)年からその後廃監(1919年)になるまでは、「樺戸監獄」となっています。


 長屋又輔は長州(山口県)出身で、55歳で月形に来る前には、山口師範学校校長などを務めています。長屋が最も力を入れたのが、監獄の食糧問題を左右する、造田のための潅漑溝の建設でした。


 囚徒たちには開庁以来、下等米4に雑穀(麦・粟・稗)6の割合で主食が与えられていました。この時代、雑穀の自給は可能になっていたものの、米は相変わらず内地からの移入に頼り、そのコストが監獄の運営を圧迫していたのです。


 長屋の赴任は、栽培技術の目途が立ち、いよいよ米の量産に着手する時期に当たっていました。長屋は須部都川を監獄から7キロほど上った地点に取水口をつくり、溝底幅約3メートル、長さ約6.6キロの水路を計画します。


 工事は1903(明治36)年11月から2年にわたり、のべ4万3000人以上の囚徒を費やして進められました。激しい労働を強いられた囚人たちの疲労は重なり、食糧不足への不満がつのったため、長屋はそれまで1食1合4匁(約165グラム)だった主食を、2合6匁(約340グラム)へと大幅に増量しました。おかげで工事はなんとか完成。念願の潅漑溝によって監獄の水田はそれまでの3倍にあたる約37ヘクタールに。さらに剰水を民有田にまわして、100ヘクタールもの新田を開くことができました。このころから監獄の水田は村の人々に、「監獄たんぼ」と呼ばれます。


 この潅漑溝は、その後月形土功組合、さらに月形土地改良区へと大切に受け継がれ、今日なお幹線として月形の米づくりを支えています。


 長屋の仕事でもうひとつ特筆されるのが、北漸寺本堂の建立でした。 1883(明治16)年に開教された北漸寺は曹洞宗永平寺派の寺院で、1896(明治29)年に建立された真宗大谷派円福寺と並んで、赤い人(囚人)が建てた寺院として名高い存在です。

 北漸寺の歴史は、永平寺(福井県)で大講義の職にあった鴻春倪おおとりしゅんげい師が、1882年に教誨師として集治監に赴任して、囚人教誨の任に当たったことにはじまります。


 春倪は、開拓がはじまった北海道において仏事や葬祭を行ったり、仏の教えを説く者が少ないことを憂い、教誨職務のかたわら僧侶としての務めに取り組みました。来道3年目には、月形潔初代典獄の援助を受けながら、囚人の労役によって75坪ほどの小さな寺院(仮御堂)を建て、1885(明治18)年7月には寺号公称の許可を受けて樺戸山北漸寺と称しました。春倪は初代の住職となりました。


 北漸寺が大きく栄えたのは、第4世鶴原鉄掌師の時代。時の典獄が、長屋又輔でした。 1908(明治41)年、信心のあつい長屋が積極的に進めた囚人の起用によって、本堂や開山堂、書院などの建設がはじまり、大工や木工の技術を持つ囚徒が連日70〜80名出役しました。囚徒でありながら立派に棟梁を務めた奥田房太郎は、京都東本願寺の山門を建てた実績をもつ実力者でした。工事は2年がかりで進められ、1910(明治43)年に入仏式が行われました。そして本堂の向拝正面には、長屋典獄の筆になる「樺戸山」の扁額が掲げられました。今日でも高く評価される本堂や玄関まわりの彫刻は、すべて腕の立つ囚人たちの仕事で、月形町ならではの文化財として異彩を放っています。


 北漸寺の寺宝には、さらに熊坂長庵作の「弁天図」があります(月形樺戸博物館に複製を展示)。長庵は相模出身の医師であり画工で、贋札(がんさつ)事件の犯人として逮捕され、1882(明治15)年に樺戸に送られた無期徒刑囚でした。2年ほどで獄死してしまいますが、「弁天図」のほかにも、独特の個性をもつ多くの絵を月形に残しています。

長屋又輔
長屋又輔