篠津山囚人墓地に眠る人々

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

篠津山囚人墓地に眠る人々

 前回につづいて、月形の郷土史研究家、熊谷正吉さんの話を続けましょう。


 集治監で在監中に死亡した囚徒の法要が行われるようになったのは、時代をくだって1899(明治32)年のこと。これには死亡囚の慰霊と、在監囚徒への教育的配慮がありました。春と秋、彼岸の中日(春分の日と秋分の日)に、札比内(さっぴない)分監の囚徒たちも参加して、構内の教誨堂で挙行されたのです。


 典獄による、法要の意味や囚徒の心得の訓辞があり、僧侶たちの読経がつづきます。そして典獄以下職員の焼香。前もって選ばれていた、作業成績などが優秀な囚徒も焼香をすることができました。朝8時30分にはじまり10時半には終わりますが、この日は労役がなく食事も特別食だったので、囚徒たちにとっては実にありがたい日でした。


 囚徒が亡くなっても、しばらくのあいだ戒名はいっさい付けられていませんでしたが、1902(明治35)年からは、真宗大谷派の僧侶により「釈□□」という戒名がつけられるようになりました。


 樺戸集治監では、1881(明治14)年の開庁から1919(大正8)年の廃監まで、事故や病気のために1,046名もの囚徒が命を落としています。主な死因をあげると次のようになります。
 ・心臓麻痺804人 ・衰弱60人 ・看守による斬殺41人
 ・作業中事故33人


 斬殺は逃亡などの企ての結果で、そのほかは道路開削など危険で苛烈な作業が原因です。そしてこの1,046人のうち、肉親に引き取られた遺体はわずか24体。実に1,022人が無縁仏となりました。これは、囚徒の大半が「内地」(本州以南)出身者で、交通の便が悪すぎたこと、そして否応なく貼られた極悪人のレッテルが、遺族の引き取りを拒むことにつながったと思われます。


 遺体は当初赤川地区に仮埋葬され、その後、月形市街から3キロほど離れた南耕地の一角に移されました。今日の「篠津山墓地」です。

篠津山墓地

篠津山墓地

 亡くなった囚徒の遺体は一度土葬されますが、満3年を経過して引き取り手が現れなければ囚徒の手で掘り出され、薪を積みあげて荼毘(だび)に伏すことになります。3年のあいだに遺体は白骨化していきますが、掘り出されて焼かれた骨は地下に合葬されました。1970年代初頭まで、篠津山墓地には、616人を葬った3基の合葬碑と、いまだ合葬されていない406人が、最初に埋められたままの状態となっていました。


 今日の篠津山囚人墓地には個人ごとに石碑が建っていますが、これは1981年度から3年間で整備されたもの。1972年、前述したように旧樺戸監獄本庁舎を転用していた月形町役場は「北海道行刑資料館」として生まれかわります。これに際して熊谷正吉さんらが進めた資料調査の過程で、監獄の合葬簿や墓地図面が発見されました。囚徒の過去帳はまちの北漸寺と円福寺にありましたが、墓地に関する資料は、廃庁後に資料一式が移されていた旭川監獄(現・旭川刑務所)にあったのです。当時町の住民課長を務めながらこの仕事に当たった熊谷さんは言います。


 「それまでの篠津墓地は野草が伸び放題で原野のような状態で、私たちは心を痛めていました。見つかった名簿と図面を照合することで、まだ合葬されていない方々の名前と埋葬場所が確認できましたから、草を刈ってササを焼き払うことにしました。はたして、埋葬してできた土饅頭(どまんじゅう。土の盛り上がり)がいくつもいくつも出てきました。町の予算でひとつひとつ、戒名をしるした墓標を建てることにしました。」


 墓標ははじめ木製でしたが、数年経つうちに腐食が進んだため、現在に残る石碑となりました。樺戸集治監が開庁した9月3日には、毎年ここで多くの来賓を迎えながら、月形町主催の「樺戸監獄物故者追悼式」が盛大に行われています。北海道開拓の先兵として、多くの開拓者や屯田兵などを迎える基盤づくりに力を尽くした囚徒たち。彼らに、厚い慰霊と感謝の心がささげられます。


 知識がなければ、一般に囚徒たち忌み嫌われる存在です。月形に生まれ育った熊谷さんは、そうした意識を捨てて、囚徒たちとその歴史背景を正しく知ってほしいと、歴史研究を続けてきました。


 「私の祖父は樺戸集治監の看守でした。祖父は早くに亡くなりましたが、私は母から、集治監にまつわるいろいろな話を聞いて育ちました。特に冬の夜など、母は恐ろしいけれど心ひかれる、集治監で起こった出来事を繰り返し話してくれました。私は大人になってそれを思い出しながらノートに書き出し、本にまとめることができました(『樺戸監獄』北海道新聞社・1992年)」


 1972年に北海道行刑資料館ができて、そのあとすぐ墓地の整備が進められて本当によかった。これで囚徒たちへも、最低限でもなんとか顔向けができる—。熊谷さんは心の底からそう思ったといいます。


 「私が通った月形小学校は、囚人たちの手で建てられたものでした。あるとき体育大会でよそのまちの学校に行って、驚きました。作りがぜんぜんちがう。月形小学校の方がはるかに立派だったのです。だから私たちは、囚人の人たちはすごい仕事をしたんだな、と実感しました。年を経て集治監のことが分かってくればくるほど、自分たちは囚人たちのことを後世にきちんと伝えなければならない、と思うようになりました。私がいまでも月形樺戸博物館でボランティアガイドを務めているのは、そうした思いからなのです」


 お盆の季節など、かつて政治犯として月形に来た人々の子孫や関係者が、博物館を訪ねてくることがあります。熊谷さんは86歳のいまでも、そうした方々の要望に応えて、墓地やかつての監獄農場跡などを案内しています。


 熊谷さんは、これまでの功績が認められ7月1日付けで、月形樺戸博物館名誉館長に就任しました。