監獄の廃監とその後の月形-1 監獄のまちから田園農村へ

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

監獄の廃監とその後の月形-1 監獄のまちから田園農村へ

 月形潔典獄のもと、1881(明治14)年8月に内務省所轄で開庁した樺戸集治監は、このブログで何度かふれたように、国の行政組織変更に伴って何度もその名称を替えました。北海道庁が発足した1886(明治19)年には道庁長官の所管となりましたが、 1895(明治28)年にはふたたび内務省の施設となります。しかしそれも1年経たないうちに、植民地統治を担う拓殖務省が設置されると同省の管轄に。拓殖務省が翌年に廃止されるとまた内務省に属し、1900(明治33)年からは司法省所管となりました。近代国家として歩みはじめた日本の仕組み自体が、まだ流動的であったことがうかがえるでしょう。


 1903(明治36)年、司法省の集治監制度が廃止となりました。これにより樺戸集治監は、特殊な監獄ではなく、「樺戸監獄」という一般の行刑施設となります。そして大正期に入り、1919(大正8)年1月、勅令によって樺戸監獄はついに廃監となります。月形村開村のきっかけとなった監獄は、39年間にわたる役割をここに終えたのでした。


 翌1920年2月、1916(大正5)年から旭川にあった札幌監獄旭川分監が旭川監獄に昇格。樺戸監獄にかかわるすべての事務がそこに引き継がれ、囚徒たちも旭川に移されました。


 この1920年は、集治監設置から40年、つまり開村40周年。村では役場庁舎を、それまでの監獄庁舎に移転しました。


 廃監にいたった背景には、さまざまな要因がありました。明治の後半から、かつては和人の未踏地であり、そのことが集治監設置の大きな理由であった月形一帯にも、しだいに一般入植者や商店などの集積が進みます。これらはおのずと、重罪人を収容する監獄の業務とは軌を一にするものではありません。また政情が次第に安定して政治犯が減少し、さらに各地に監獄が整備されて囚徒が減ったことや、過酷な外役の事故への批判が強まったこともあり、監のあり方が問われるようになっていったのです。


 廃監当時の樺戸監獄には、39年の歴史で開いた広大な田畑や施設群、そして林地などが財産としてありました。囚徒たちが開いた水田は約50haで、畑は223ha。本監や出張所の敷地その他を合わせると、樺戸監獄にはおよそ5,000haを超える広大な土地があったのです。東京の山手線の内側の面積(約6,300ha)のおよそ8割にもあたる広さですから、ひとつの施設が抱えていた財産として、そのスケールに驚かされます。


 さて廃監後、この厖大な財産の行方はどうなったでしょう?


 月形村では、役場や議会、村民を巻き込んだ議論の中で、2つの考えが打ち出されました。すなわち、すべてを国から村に払い下げてもらうべきだという意見と、役場ではなく村民が直接譲り受けるべきだ、という考えです。対立した2派は、それぞれ司法省への陳情に上京するなど活発に運動。またそのさなかに監獄所有の土地が司法省から内務省に移管されるなど、事態は混乱を深めました。結局当初2年間は、村が借用して力のある有志が作付けなどを行うことになります。


 そして1921(大正10)年には、金森保太郎や石本熊一郎といった実力者や、新宮商会、三井合名株式会社などの有力企業に、数百haの単位で分割されていきました。


 監獄の巨大な建物群はほとんどが売却、移設され、村には倉庫や官舎、典獄住宅の一部などが残されただけでした。また監獄で使われた家具や膨大な道具などの財産は競売にかけられ、これを求めて数十名の古物商が全道から集まりました。


 1899(明治32)年、今日の農協(JA)の源流に位置づけられる農会法が公布され、日本各地に農業団体の「農会」が誕生します。月形では役場に農会の事務所が置かれ、農業技術者も配置されました。初代の会長には、月形潔と同郷(福岡県)でその腹心の部下だった海賀直常が就任しています。その10年後、1909(明治42)年には新田開発のために月形村用水土功組合が発足。これも海賀が組合長に就きました。


 監獄農場とは別に月形で民間人による開拓が本格的にはじまったのは、1887(明治20)年、北越殖民社(新潟県で発足)の晩生内(おそきない)への入植から。同社はやがて野幌地区(現・江別市)の開墾に集中することになりますが、太古から石狩川が運んだ肥沃な広野に恵まれた月形は、しだいに入植者を集め、山岳地帯にかけての天然林では木材生産も広がっていきました。


 集落が形成されるようになると、監獄ばかりでなく開拓民相手に日用品や雑貨を扱う商店もでき、やがて役場や郵便局、小学校。巡査駐在所などを中心として商店が並ぶようになります。今日の国道275号の源流となる街道沿いなどには。新開地らしい街並みが生まれていきました。


 月形で酪農がはじまったのは、樺戸監獄が廃監となった1919年ころ。こうした民間の入植者たちは、開墾のあいまを見て道路工事の現場仕事や冬場の造林(木材伐採)の仕事に従事しました。やがて1930(昭和5)年には北海道製酪販売組合連合会(のちの雪印乳業)の月形工場が開設され集乳を開始。酪農は地域の基幹産業に育っていきました(同工場は1964年まで操業)。


 月形の発展に重要な役割を果たしたのが、1935(昭和10)年、札沼線の開通です。


 札幌から石狩川右岸に鉄道を、という運動は、すでに明治の末にはじまっていました。「石狩川右岸七個村及一区連合鉄道速成同盟会」という団体が発足し、初代会長には、ここでも月形の海賀直常が就任しています。石狩沼田(雨竜郡)から敷設工事がはじまったのは、ようやく1927(昭和2)年。そこから浦臼までは1934年に開通し、翌35(昭和10)年秋には札幌の桑園から月形を経て石狩沼田に達する、約111キロに及ぶ全線が開通。月形には、石狩月形駅と札比内(さっぴない)駅のほか、保線区や通信分区の施設も設置されました。


 1891(明治24)年の月形村戸長役場設置、そして1906(明治39)年の村制施行以来の悲願だった鉄路の実現によって、月形は監獄のまちから農業のまちへと、大きく舵を切ったのでした。