1972年、北海道行刑資料館の誕生

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

1972年、北海道行刑資料館の誕生

 樺戸集治監の歴史をひととおり綴ってきましたが、ここで時代を下った話をしましょう。


 1919(大正8)年に樺戸監獄が廃監となると、1886(明治19)年竣工の監獄本庁舎は、月形村役場の庁舎に転用されました。そして時代を経て1972(昭和47)年に現在の庁舎が完成すると、この建物は北海道行刑資料館に生まれかわったのです。町単独で行ったこの事業に裏方として深く関わったのが、当時月形町(1953年から町制施行)役場職員だった熊谷正吉(郷土史研究家)さんです。

郷土史研究家 熊谷正吉さん 

郷土史研究家 熊谷正吉さん

 1925(大正14)年に月形で生まれた熊谷さんは、月形尋常高等小学校(現・月形小学校)から札幌の夜間中学に進み、卒業した1944(昭和19)年の春に月形村役場に入ります。召集令状に関わる兵事戸籍係の仕事をしながら、終戦を迎えました。


 戦後の仕事は、戦争に関する膨大な書類を焼却することからはじまります。全国の行政機関や軍事関連産業などで一斉に行われたこの膨大な作業は、進駐軍などに不都合な情報が渡らないようにする、証拠隠滅でした。


 ある日上司は、ついでにあれも焼いておけと、たくさんの古い書類の処分を命じました。整理をはじめてみるとその中に、明治時代の寄留戸籍簿があります。現在の住民登録簿です。「これはきっと取っておくべきものにちがいない」—。若い熊谷さんは直感しました。そして上司には処分したことにしておいて、書類を役場の書庫にこっそり移したのです。これがのちに、町にとって貴重な資源となることを、当時は誰も知りませんでした。


 熊谷さんはその後役場を休職して、札幌の文科専門学院(現・札幌学院大学)で法律を学びました。長く苦しい戦争の時代がようやく終わり、若者たちは新しい知識や世界観に飢えていました。残念なことに学費が足りずに2年で中退して役場に戻ったのですが、熊谷さんは、勉学に取り組んだこの2年間は自分の人生で大きな意味があったと言います。


 1950年代になって熊谷さんは教育委員会の社会教育担当になり、月形の成り立ちの原点にある樺戸集治監の歴史を本格的に調べはじめました。60年代はじめには町役場の建て替え計画が持ち上がります。旧庁舎は集治監の歴史を残すために保存されることになっていくのですが、熊谷さんは、建物だけをのこしても意味がない、集治監にちなむ歴史資料を集めようと決心しました。上司や議会の理解を求めながら、広報誌などで町民にも資料提供を呼びかけます。

木綿の一反(いったん)風呂敷

木綿の一反(いったん)風呂敷

 まず寄せられたのが、木綿の一反(いったん)風呂敷でした。真ん中に『樺戸監獄』という文字が染め抜かれています。縁者が監獄に勤めていたという女性からでした。これは監獄の用務員が日常業務で物資の運搬や買い物に使ったもの。上質だったので、用務員たちは無くした、と報告しながら家に持ち帰り布団地などに流用していました。監獄ではのちにそんな不正を防ぐために、大きな文字を入れたのでした。


 風呂敷の発見が新聞などで取り上げられて話題となり、やがてうちには囚人が作ったタンスがある、神棚がある、といった声が熊谷さんに寄せられるようになります。監獄に出入りしていた御用商店に務めていた家からは、囚人が作った鏡台や針箱などが持ち込まれました。


 広くはないまちとはいえ、大正8年で終わった監獄の歴史を実際に知る人はどんどん減っていたため、熊谷さんの呼びかけは、まちが自らの成り立ちを再発見していくことにもつながりました。


 熊谷さんは語ります。
「連絡が入るたびに私はリヤカーを引いて駆けつけました。平日の昼間は役場の仕事がありますから、夜とか休みの日にね。そんな姿を見て、『熊谷は雑品屋みたいなことをして、まったく物好きなものだ』といった陰口も聞こえてきました。でも全然気にしなかった。なにしろ次々に発見があり、夢中だったのです」


 1971年の秋、1本の電話が思わぬ大発見を呼びこみます。幕末の新撰組の研究者から、「剣の達人として名高い永倉新八が、かつて樺戸監獄で剣術を教えていたという説があるけれど、記録はないだろうか」と問い合わせがあったのです。


 熊谷さんはすぐ、戦後書庫に隠していた寄留戸籍簿を思い浮かべました。もしかしたらあれに載っているかもしれない。調べてみると、しかし永倉新八という名は見つかりません。そうこうするうちに熊谷さんは、永倉が明治になって杉村義衛と改名していたことを知りました。ならば杉村ではどうだろう。はたして1883(明治16)年の書類に杉村の名があり、看守の剣道師範として在職していたことがわかりました。大発見でした。


 「あのとき上司の命令にただ従っていたなら、この発見はありませんでした。こっそり逆らっておいてほんとうに良かった(笑)。そして、自分があのとき兵事戸籍係の仕事をしていたことが、不思議な因縁だと思えてならないのです」

郷土史研究家 熊谷正吉さん 2

 熊谷さんはその後「月形町郷土史研究会」を立ち上げ、同志を募りながら、月形の監獄史の研究を進めていきました。