樺戸に名を残す囚徒列伝

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

樺戸に名を残す囚徒列伝

樺戸集治監 本庁舎

 贋札づくりで無期徒刑に服しながら月形の地でも多くの絵を残した熊坂長庵や、難攻不落の集治監から脱走を繰り返した伝説の脱獄囚五寸釘寅吉…。彼らのほかにも、樺戸の監獄にはその逸話が長く語り継がれた囚徒たちがいます。郷土史家熊谷正吉さんの調査などをもとに紹介しましょう。


海賊房次郎

 1910(明治43)年の夏、15年の刑期で収監された強盗犯大沢房次郎は、「海賊房次郎」の異名で知られていました。名前のいわれは、水の上でも中でも巧みに体が使え、プロの潜水夫にも負けないほど潜りの名人であったことにちなみます。


 北海道が果てしのないほどの原生林でおおわれていた当時、樺戸監獄(明治36年から廃監の大正8年までこの名称)では、監獄より石狩川上流の札比内(さっぴない)分監で木材の伐採が盛んに行われました。一帯は広大な官林だったのです。切り出された大木はイカダに組まれて石狩川を下り、2里(約8キロ)下流の樺戸まで流送されます。そして樺戸の監獄波止場には、専用の水揚げ場がありました。房次郎はこの場所で水揚げ頭(かしら)として多くの囚徒たちに的確な指示を与え、危険な重労働を手際よく仕切っていたのです。


 水揚げに従事する看守たちは、イカダがいま出発したという分監からの電話連絡を受けるや、すぐ「海賊を呼べ」と声を上げます。ふだんは器械工として働いていた房次郎は、その声で波止場に登場するのでした。房次郎は、当時としては堂々たる体つきの5尺6寸(約170センチ)。かつてふるさとの村相撲では大関をはっていました。入監当初は看守に反抗した時期もありましたが、自分にしかできない持ち場ができるとやがて模範囚になっていきます。


 彼は1919(大正8)年の廃監まで在監して、その後は網走監獄に移されました。


破戒僧、大須賀権四郎

 僧侶だった大須賀権四郎は、僧籍にありながら酒と女にふけり、そのために寺を追われた破壊僧。喧嘩がもとで人を殺し、15年の刑を負って樺戸にやってきました。


 監獄での暮らしも悔悛にはほど遠いもので、1910(明治43)年の夏、第1耕地収穫舎で作業中に看守の目を盗んで逃亡。これは無期徒刑囚松本真一郎と共謀した脱獄でした。しかし山中に潜んでいるところを、その日のうちに見つかってしまいます。


 学問のある大須賀は、書もよくし、法律の知識までも豊富でした。そのためにつねに看守たちに理屈をこねて反抗的な態度をとり、学を鼻にかけて嘲笑するような態度を見せることもしばしばでした。また同房の囚徒たちに悪知恵をつけて、監獄の規律を乱す言動をあおりました。


 1913(大正2)年の早春。作業のない日曜日のことでした。囚徒全員が僧侶からの教誨(更生のための訓話)を受ける「総囚教誨」が教誨堂で開かれました。看守らは各監房を開錠して囚徒たちを集めますが、大須賀はただひとり、へりくつをこねて出席をしぶります。苛立ちがつのった里見監房主査は、木刀で彼を一撃。大須賀も抵抗しましたが、この一撃が致命傷となって絶命してしまいました。曲がった道に進まなければひとかどの僧侶となっていたであろう大須賀は、わずか30歳で篠津の囚人墓地に眠ることになったのです。


スリの名人、玉木勘四郎

 ほぼ同じ時代。ちょっとユーモラスな逸話も伝えられています。


 1907(明治40)年、なんと前科25犯というスリの名人、玉木勘四郎がやってきました。9歳のときからスリに手を染めた勘四郎は、強盗殺人を重ねたような凶悪犯とはほど遠い風貌で、全身に役者の顔の入れ墨をした優男(やさおとこ)でした。


 「スリの大親分が来る!」という事態は、看守はもとより囚徒たちのあいだにも大きな話題を呼び、注目が集まります。監獄に到着した彼に新人の須藤看守が図にのって話しかけました。


 「お前はスリの名人だそうだが、どうだ俺のこの懐中時計を掏(す)ることができると思うか?」


 玉木はふてぶてしく、「すったら何をくれるんですかい?」と答えます。売り言葉に買い言葉。須藤看守は、「ああお前の好きなものをくれてやるさ」と答えました。典獄をはじめとした上層部は知らない、秘密の取引です。


 それから須藤看守は、監内でも野外の作業現場でも玉木の姿を見るとすぐ遠ざかり、ふところの時計をしっかりと握りしめるようになりました。こうすればすられるわけはありません。


 しかしなんということでしょう。1週間もたったころ、玉木が須藤の前に現れ、「はい、旦那の時計ですぜ」と懐中時計を差し出したではありませんか。


 須藤看守の驚きと悔しさはいかばかりだったでしょう。


 玉木は約束だからと、砂糖がほしい、食事に玉子をつけてくれ、などと欲しいものをねだります。はじめはしぶしぶ従っていた須藤看守もさすがにこれ以上は許されないと感じ、「もうこれでおしまいだ」、と強く申し渡しました。すると玉木は、「最後に典獄に会わせてくれろ」とゴネました。典獄に会って、新米の看守がこんな悪ふざけをしました、と訴えるつもりだったのかもしれません。須藤は玉木をなんとかなだめすかします。
さて、そもそも玉木はどのように看守の懐中時計をすったのでしょう。実は実際に犯行に及んだのは、玉木の手下になって働いた別の囚人でした。須藤は、玉木に用心するあまりに、手下が自分に近寄ってことに及ぶのに気がつかなかったのです。


 スリはつねに仲間との連携で動くという常識を、若い須藤看守は知らなかったのでしょう。