キリスト教精神による教化を進めた大井上輝前

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

キリスト教精神による教化を進めた大井上輝前

 樺戸集治監の第3代典獄は、1891(明治24)年に就任した大井上輝前おおいのうえてるちかでした。父は伊予大洲おおず藩士。 1848(嘉永元)年伊予(愛媛県)に生まれ、大洲藩の藩校から、同郷の洋学者武田斐三郎が教える箱館奉行所諸術調所で学び、10代でアメリカ西海岸に遊学。アメリカではキリスト教の精神をも身につけ、帰国して箱館戦争(1868~69)の官軍に加わります。幼名は井上弥三郎ですが、明治の新時代を迎え、大洲藩の「大」の字を加えて大井上という姓を名乗りました。


 やがて開拓使の官吏となり、1883(明治16)年には内務省監獄局で北海道集治監建設事務の仕事につきます。 85年には初代典獄として釧路集治監(熊牛村、現・標茶町)の立ち上げを率いました。 1889(明治22)年に村に川上郡役所が設置されると、大井上は郡長と警察署長、さらに不動産登記官も兼任。地域の行政、司法の整備に深く携わりました。釧路集治監の囚徒たちは跡佐登(アトサヌプリ)の硫黄鉱の採掘に動員され、苛烈な労働を強いられましたが、大井上は政府とのねばり強いやりとりを重ね、やがてこれを廃止させました。


 1890(明治23)年、市来知(現・三笠市)の空知集治監の典獄に転任。ここでも囚徒は幌内炭鉱での危険きわまりない採掘に従事させられていましたが、大井上はやはり囚人坑夫を廃止します。標茶と市来知でのこうした措置には、教誨師(囚人たちに非を悔い改めるように教え諭す仕事)原胤昭(はらたねあき)のサポートがありました。江戸町奉行の与力だった原もまた、キリスト教の精神で囚人たちに接したのです。ふたりには、集治監は単なる懲戒(こらしめ)のためではなく、教化と更正のためにあるという信念がありました。懲戒か教化か。このふたつの考えの対立は、戦前の日本の行刑制度が長く抱えていた問題でした。

 

 1891(明治24)年に月形に赴任すると大井上は、機構変更によって空知集治監と釧路集治監を統括する任も担います。樺戸集治監は北海道の集治監の本監となり、彼は月形へ栄転をとげたのです。大井上は、樺戸集治監でも教誨師に原胤昭を呼び寄せました。彼は原に十分な力を発揮させるために、教誨堂を西洋式の椅子に改めました。道庁ではその写真を文化建築として、北海道のPRに使いました。

 

 大井上の時代、内陸の幹線道路は、このコラムで前述したような過酷な囚人労働によって、ほぼ開通していました。大井上は囚人たちを、永山村(現・旭川市)の永山屯田兵村など、屯田兵舎の建設に当たらせました。水源地の整備や、井戸ごとに小屋を設けて衛生を図るなどの仕事は、『月形町史』に「屯田兵舎の整備に尽くした功績はきわめて大きいものがあった」と評価されています。北方防衛と開拓の文字通りの先兵として位置づけられる屯田兵ですが、彼らが移住して来られるように道路を開き兵舎を建てた仕事の多くは、囚人たちが担ったものでした。


 大井上はまた、アメリカで知った野球を囚徒たちの教化に役立てようと、道具を揃えて彼らに野球を教えました。さらに小学校にオルガンを購入するなど、4年の任期中に月形には、少なからぬ西洋文化が入ることになりました。


 大井上の退任の背景には、彼が進めるキリスト教を元にした教化の施策に対する内部の反発があったといわれます。月形を引いたあとは、札幌区(当時)の区議会議長なども務めました(札幌に市制が敷かれるのは1922年)。

 

 集治監の囚人には、刑事犯のほかにたくさんの政治犯(国事犯)がいました。「懲戒か教化か」という問題に関連して、少し時代をさかのぼりながら、集治監の政治犯のことにふれましょう。

 

 1877(明治10)年の西南戦争をピークに、明治政府に反感を抱く旧士族たちがつぎつぎに反乱を起こしたことは先述しました。彼らはいずれも鎮圧され、首謀者たちは重罪人のレッテルを貼られることになりました。また旧士族反乱の流れは、憲法制定や国会開設といった民主化を求める「自由民権運動」ともつながり、この分野でも多くの逮捕者を出しました。政府は、こうして急増した政治犯を収容するためにも北海道に集治監を作ったのです。


 政治犯にとって集治監送りとなることは、きわめて理不尽で残酷なことだったでしょう。彼らは、世が世であれば罪になど問われることのなかった人々でした。自由民権運動が激化した事件として、群馬事件、名古屋事件、加波山事件、秩父事件、静岡事件などが知られています。これらのリーダーたちの多くは北海道に送られました。政治犯をもっとも多く収容したのは空知集治監ですが、樺戸集治監にも、ここにあげた事件の中心人物たちが収監されました。群馬事件の宮部譲、深井卓爾、名古屋事件の奥宮健之、加波山事件の草野佐久馬、五十川元吉、秩父事件の菊池貫平、堀口栄次郎、宮川寅五郎ほか7名、静岡事件の清水高忠などです。

 

 歴史にはさまざまな視座がありえます。一方では英雄でも、他方ではまったく逆の評価が成り立つ人物もいるでしょう。勝者と敗者を冷酷に分断した明治維新という巨大な出来事は、とりわけ北海道に複雑な歴史観をもたらすことになりました。時の政治家や開拓官僚たちの視点だけでは、この大地の歴史をとらえることはできません。

 月形町は、樺戸集治監を語る際に最も重要なのは、「赤い人々(囚徒)への哀悼と慰霊、そして感謝である」と考えています。多くの移民たちの、そして屯田兵や企業家、官僚たちの仕事の基盤を作ったのは、実に集治監で暮らし厳しい労働に明け暮れた、名もない「赤い人々」でした。私たちは、その事実をまっすぐに受けとめなければなりません。

 

大井上輝前
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