開拓の基盤を作った囚人道路

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

開拓の基盤を作った囚人道路

 月形潔の跡を継いで二代目典獄となったのは、長州藩出身の安村治孝やすむらはるたかでした。安村は、1844(弘化元)年長門国阿武郡萩江村(現・山口県阿武町)生まれ。明治になって奥羽鎮撫総督府、兵部省、東京府、警視庁などに奉職しました。警視庁の時代には、小隊長として西南戦争(1877年)に出陣しています。このとき敵の総大将西郷隆盛と、最後の城山(鹿児島市)の戦い(1877年9月24日)で組み合って死闘を演じた、といった伝説の持ち主でもあります。人は安村を、小兵であったが酒豪にして豪胆の人であったと語り継ぎました。その後市ヶ谷囚獄で署長に就きましたが、当時毒婦と騒がれた凶悪殺人犯、高橋お伝の打ち首の検視(1879年)を務めたことでも知られます。


 1883(明治16)年に安村は集治監典獄となり、1885(同18)年8月、月形村に赴任しました。この直前の7月、彼の月形での針路を決定づける出来事がありました。時の最高実力者である伊藤博文(この年の12月に初代内閣総理大臣就任)の側近であった太政官大書記官金子堅太郎が、北海道各地を視察した上で政策を建白したのです。当時の北海道は、開拓使が廃止されたあと三県一局(札幌、函館、根室県と、農務省事業管理局)の行政区分となり、縦割り行政の弊害や、大蔵卿松方正義が行った緊縮財政(松方デフレ)などによって、開拓の諸事業は停滞していました。金子来道の目的は、そうした状況の打開にありました。


 米国ハーバード大学法学部を卒業し、のちに大日本帝国憲法(1889年発布)の起草にも関わった金子は、このときの調査でまとめた「北海道三縣巡視復命書」の中で、札幌農学校や豊平館、葡萄酒製造、師範学校などを 「最モ殖民地ノ急務ヲ鑑ミザルモノト云フベキナリ」と指摘し、北海道には過ぎたるもの、と決めつけています。さらに注目すべきは、囚徒の使役に関する一節です。金子は、「囚徒らは道徳にそむいている悪党であるから、懲罰として苦役させれば工事が安く上がり、たとえ死んでも監獄費の節約になり、一挙両得である」という意味の主張をしました。


 1886(明治19)年1月、三県一局が廃止されて北海道庁が設置されると、樺戸集治監は道庁長官の指揮下に入ります。この時点で北海道には、市来知いちきしり(現・三笠市)に空知そらち集治監、標茶しべちゃに釧路集治監ができていました。同年4月、北海道庁初代長官岩村通俊は安村に、市来知と忠別太ちゅうべつぶと(現・旭川市)のあいだ約88キロを結ぶ上川仮道路の開削を命じました。現在の国道12号の前身です。岩村もまた、囚人に対して月形や金子と同じ考えを持っていました。翌87年5月には、全道郡区長会議において全道基幹道路の計画が発表されました。そこには、第一に札幌を起点として空知・上川から釧路・根室にいたる道路、第二に樺戸から日本海側の北増毛にいたる道路、第三に釧路から網走に至る道路の新設がうたわれていました。上川道路は、第一の計画の一部です。工事の主役は、樺戸、空知、釧路、各集治監の囚徒たち。こうして千古斧鉞せんこふえつの原始林や人跡未踏の湿地をぬって、日本の土木工事史上もっとも苛烈な囚人道路の工事が着工されました。


 上川道路は空知集治監との共同事業となりました。石狩川の大支流である空知川を境に、そこから忠別太までは樺戸集治監が、空知川から市来知までは空知集治監が担当します。作業は200人の囚人を一団として、3里ごとに外役所を設けながら突貫作業で進められました。夜も眠れぬほどおびただしい糠蚊ぬかかやブヨが襲来するなか、クマやオオカミにおびえながら全て人力による工事が進められます。満足な食料も与えられず劣悪な衛生環境もあってケガや病人が続出しました。石狩川のカムイコタンはとりわけ難所続きのために、現場からはたまらず迂回の願いが出ましたが、安村典獄は頑としてゆずらず、ひたすら突き進めと指示を出し続けました。そうして上川道路は、わずか4カ月あまりで仮道が全線開通。そんな条件下で翌1887(明治20)年から本工事が行われ、正確には記録もない数の犠牲者を出しながら、3年ほどで開通しました。


 上川道路ができると次はオホーツク方面、旭川から北見峠を越えて網走へと北見道路の工事が進められます。明治政府には、近代国家建設のために北海道開拓を一刻も早く進め、北方からのロシアの脅威に備える必要がありました。この工事もまた空知集治監と共同で進められ、1890(明治23)年に釧路集治監分監として設置された網走囚徒外役所(最寄村・現網走市)からも多くの囚徒が動員されました。樺戸の囚徒たちは主に橋や舎屋の建設に当たりました。


 全長217キロ以上に達したこの道は、上川道路にも増して難工事の連続。囚人労働史上最も悲惨な事例とされています。ここでも200人を一団として3~4里を一区域としましたが、割り当てを早く終えた組に次の工区の選択権を与えるという方法が取られました。結果、空知と釧路の各組の看守間で激烈な競争が起こったのです。囚人たちは夜明け前に叩き起こされ、逃走防止のために二人一組の連鎖をかけられました。看守たちはピストルとサーベルで威嚇します。あげくに寒さや食糧不足から水腫病が大量発生。北見ではわずか半年間に、出役した1150人のうち900人以上が発病して180人以上が死亡。逃走を企てて斬殺される者も続出しました。屍はしばらく、風雨にさらされるままにされたといいます。やがて土がかぶせられましたが、のちにそうした「土まんじゅう」が掘り返されると、土に帰りつつある骨と共に、まだ原型を保った鉄の鎖が出てくるのでした。


 安村は1889(明治22)年1月から、樺戸、雨竜、上川三郡の郡長を兼務することになり、監獄の責任者に加えて地域の行政のトップともなります。この時期上川道路や網走道路のほかにも、樺戸と市来知を結ぶ樺戸道路、月形と増毛を結ぶ天塩道路などが樺戸集治監の囚徒たちの手で開かれていきました。


 安村典獄の在任期(1885~1891)は、北海道開拓の最初の屋台骨となる幹線道路が急ピッチで開かれた時代であり、 その大部分を担ったのは、「赤い人」、すなわち集治監の囚徒たちでした。


 1891(明治24)年に上川の永山、翌年には東旭川、93年には当麻に、それぞれ屯田兵400戸ほどの入植がありました。上川以北にようやく開拓の斧が下ろされるようになったのです。それを可能にしたのは、囚徒たちが命と引き替えるように造った上川道路でした。札幌と旭川が鉄路で結ばれたのは、1898(明治31)年のことにすぎません。札幌の月寒で編成された陸軍第7師団が旭川に進出したのも、鉄道に先がけて囚徒によって拓かれたこの道があり、旭川が道北の中心地として歩み始めていたからなのです。北見、網走地方においても、屯田兵や開拓団が入るための最初のインフラを整えたのは、同様に集治監の囚徒たちでした。


 私たちはこの事実と意味を、決して忘れてはならないでしょう。過酷をきわめた労働によって今日の北海道のいしずえを築いたのは、樺戸をはじめとした集治監の「赤い人々」だったのです。

 安村治孝

安村治孝