囚人開拓、はじまる

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

囚人開拓、はじまる

 1880(明治13)年にはじまった樺戸集治監の建設は、人跡未踏の原野に、工事関係者や物資輸送などに関わる多くの人々を集めました。ひとつのまちが一夜城のごとくに誕生したのです。そうして集治監開庁にふた月ばかり先がけた1881(明治14)年7月1日、空知管内最初の村として月形村が誕生しました。町名はもちろん、初代典獄月形潔にちなみます。アイヌ語地名のシベツブトでは「死別」に通じる、と嫌われたいきさつもありました。初代の戸長には、月形潔や海賀直常(初代警守課長兼興業課長)らと共に東京から来ていた熊田直之が就きます。


 1881(明治14)年9月3日、樺戸集治監開庁。


 集められた囚徒たちは、近くのシベツ川の南の原生林に挑み、伐木、抜根、根焼きなどの作業を進めました。労役のはじまりは、まず自分たちの生活基盤づくりでした。延べ748人が昼なお暗い森で巨木を切りだし、19日間で6町2反6畝(約6.2ヘクタール)の畑地を拓きました。これは一人あたり一日25坪(約83平方メートル)にもなり、故郷を遠く離れた最果ての地で、技術も経験もなく道具も満足に揃わない状況下としては、驚くべき実績だったといえるでしょう。あるいは現代の私たちの想像を超える過酷さ、というべきかもしれません。


 つづいて石狩河畔に1町歩(約1ヘクタール)ほどの試植農地を拓き、野菜や豆、麻などの種がまかれます(米はまだ無理でした)。試作は成功し、開墾にもいっそう発破がかかりました。やがてシベツ川の南に合わせて6町歩(約6ヘクタール)ほどの開墾地を確保することができました。ここを基盤に、夏は農耕とさらなる開墾、冬は山仕事(伐木)と、囚人開拓が進められていったのです。 1882(明治15)年からの5年間で拓いた耕地は325町歩に及び、畑は須倍津農場と知来乙農場に区分けされました。


 当時石狩川沿いでは、月形が札幌以北で唯一の村落でした。 1882(明治15)年春には月形村役場に樺戸、雨竜、上川三郡の各村役場が置かれ、月形の警察分署の権限は、これら3つの郡全土に及びました。またこの年にはすでに職員らの子弟のために、月形小学校の前身である月形簡易教育所が開かれています。


 そのころ道内には郵便局が111局ありました。1等局はふたつ、2等局は3局。ふたつの1等局とは、小樽と月形のもの。開拓使庁があった札幌はまだ2等局にすぎません。


 月形典獄は、村の発展を図るために商人を小樽から招致して、一般の入植も広く奨励しました。夫婦であることを条件に入植者には30坪の土地を無償で与えることにすると、希望者が次々に名乗り出ました。中には夫婦を騙(かた)った入村も少なくなかったようです。


 立ち上がったばかりの集治監のインフラ整備に打ち込んだ月形典獄にとって、交通をいつまでも石狩川の不安定な水運ひとつに頼ることはできません。道路開発も重要な課題となりました。こうして当別への道路工事がはじまります。


 当別には、1872(明治5)年に旧岩出山藩の一行が入植して、まちづくりが進められていました。戊辰戦争での奥羽越列藩同盟の中心だった仙台藩の支藩である岩出山藩は、維新政府によって石高を1万5千石からわずか65石に減封(げんぽう)され、路頭に放り出された人々のうち40数戸が、藩主伊達邦直と共に新天地に渡っていたのです。樺戸集治監の成り立ちとも通じる、時代に取り残された「敗者の土地」としての北海道を再認識する入り口がここにもあります。


 さて道路開削を率いたのは、前回登場した海賀直常(警守課長兼興業課長)でした。ルート踏査には、幕末に蝦夷地(北海道)に渡り篠路村(現・札幌市)の開祖としても知られる早山清太郎が加わりました。巨木におおわれた山谷や沼沢(しょうたく)を縫って難工事が懸命に進められ、1883(明治16)年、当別までの仮道路が開通します。まだ刈り分け道にすぎないとはいえ当別への道ができたことで、とりあえず札幌までの陸路が開通しました。


 一方で月形は、この道が囚徒の逃亡路に使われることを懸念していました。はたして開通半年間で4件の脱走が起こり、当別の村民たちを震え上がらせました。


 監内での囚徒たちの暮らしにふれておきましょう。獄衣は、作業着はもちろん房内着から股引や足袋、下帯にいたるまで、すべて赤く染めたもの。たとえ脱走してもよく目立つという理由です。これが囚徒の別名、「赤い人」の謂われでした。


 起床、始業、昼食、終業、夕食、就寝など、基本行動のすべては鐘によって指示されました。通用口に設置された銅製のこの鐘の音は外にもよく聞こえたので、村人も囚人がいま何をしているのかがわかったといいます。


 食事は、米と雑穀が4対6のものに、塩鮭、塩ニシン、ジャガイモなどの副食がつきます。労役の軽重(けいちょう)によって主食の量に差がつけられました。風呂は夏は5日に1度、冬は10日に1度程度で、脱衣から入浴、洗いなど、すべて看守の号令によって全員が同じ動きをさせられました。


 このほか脱走やケンカなどを起こすと独房での謹慎や責めがあり、労役の現場では足首に鉄の玉をつけられるなど厳しい罰則がありました。詳しくは、稿をあらためましょう。


 千古不斧(ふふ)の原始林の踏査からはじまり、庁舎の建設と一帯の開発、道路や橋梁の建設と、月形村をゼロから立ち上げた月形潔ですが、積年の激務からか肺を患い、1885(明治18)8月、足かけ5年に及んだ典獄の職を退任。月形村を去りました。初代典獄の時代の終わりです。


 その後月形潔は郷里福岡で療養を続けましたが、1894(明治27)年、惜しまれながら48歳で世を去りました。

 囚人開拓の様子

囚人開拓の様子