伝説の脱獄囚、五寸釘寅吉

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

伝説の脱獄囚、五寸釘寅吉

 今回から、熊谷正吉さんの話などをもとに、樺戸集治監をめぐる印象的な人物やエピソードを綴っていきましょう。まずあげたいのは、樺戸で最も有名な囚徒のひとり、五寸釘寅吉こと西川寅吉です。


 五寸釘とは、彼の脱獄にちなむ異名。いわれについて熊谷さんは、伊勢国松坂本町(現・松阪市)の老舗質店に押し入った事件がもとだ、といいます。寅吉は、松坂にほど近い三重県多気郡の生まれでした。


 ある夜更け、寅吉は松坂の質店三好屋に盗みに入ります。蔵はちょうど修理中でした。主の部屋に忍び足で近づくと、かねてから寅吉を追っていた者が犯行に気づきます。寅吉もこれを察知。逃げるために2階に駆けあがり、ひらりと地上に飛び降りました。しかし地面に着いた瞬間、信じられないほどの激痛が走ります。工事中であったために散らばっていた、五寸釘が打ち付けられた板を踏み抜いてしまったのです。5寸とは約15センチです。


 寅吉は手当をする間もあらばこそ、とにかく逃げ続け、2里半(約10キロ)ばかり先でようやくひと息つきました。板きれを抜こうと草むらで星明かりを頼りに足を見ると、釘は甲を優に貫通しているではありませんか。必死の思いで釘を抜くと卒倒するような痛みと出血に耐えながら、とにかく身をかくして手当ができる場所をさがしました。幸い親の代から親しくしている家が近く、這うように駆け込みます。しかし、傷を焼酎で洗い回復を待っている日々に、寅吉は御用となってしまいました。このできごとが、やがて1899(明治32)年に東京の都新聞の探偵実話シリーズに「五寸釘寅吉」として取り上げられ、のちに本にもなると、寅吉は全国的な有名人となりました。これが「五寸釘寅吉」のいわれです。


 寅吉が最初に樺戸に収監されたのは、1889(明治22)年9月。35歳のときでした。神奈川県北多摩郡の酒荒物店に凶器をもって押し入り、10日後に情婦のもとに潜伏しているところを捕まったのです。15年の懲役刑を負っての樺戸入りでしたが、彼の犯罪歴は、しかしそのはるか前にさかのぼります。


 西川寅吉は1854(安政元)年、三重県多気郡上御糸村の貧しい小作農の4男に生まれました。19歳で結婚してほどなく父となりましたが家庭の複雑な事情があり、21歳のときに長兄との喧嘩から傷害事件を起こし、2年の刑を言い渡されました。入ったのは、度会(わたらい)県(現・三重県)の度会刑務所。


 刑期を終えて帰郷しても、寅吉の人生の展望は晴れませんでした。その後すぐ上の兄ら悪い仲間に引きずられるように強盗や傷害事件をくり返し、横浜監獄署と三重監獄署に入りました。人生最初の脱獄はこの横浜監獄の時代。移送中に看守の目を盗んで逃げました。実家の地主への恨みがもとで起こした放火と傷害で捕まって入った三重監獄でも、仲間とともに脱獄。そのあとで起こしたのが、五寸釘を刺したまま質店から逃亡した、あの事件でした。


 寅吉は東京の小菅(こすが)集治監にあった、北海道送りの囚人を集める仮留監に入れられ、その後北海道に渡り、市来知(いちきしり・現在の三笠市)の空知集治監に移されることになりました。


 空知集治監は、樺戸集治監とともに恐れられたさいはての監獄です。しかし寅吉は、ここでも作業中に看守の目を盗み、まんまと脱獄に成功してしまいました。すぐ全国に指名手配となりましたが、逃げ続けます。そして1889(明治22)年の秋、神奈川県で強盗を働いたところをつかまり、樺戸にやって来ました。


 捕まったといっても寅吉は、原籍不明の西川安太郎という人物になりすまし、指名手配犯であることは隠していました。だから樺戸では前刑のない者が入る、一般の雑居房にいれられたのです。花札の名人でしたから、やがて牢の中で一目おかれることになりました。しかしあるとき、かつて空知集治監にいた看守に正体を見破られるとついに独房に移され、足首に鉄丸をつけられました。


 そのころ囚徒たちは、上水道の堰堤(えんてい)補修の工事についていました。この作業中寅吉たちは看守を襲い、ニシン景気にわく厚田へと逃走します。しかし5日目につかまり、結局監獄に戻されました。牢屋はもちろん監視が厳重な独居房で、今度はとうとう無期徒刑(懲役)。独房にいるあいだは、一番重い1貫目(3.75キロ)の鉄丸がつけられました。


 ここで寅吉は、再び脱獄に挑みます。外役から帰って鉄丸がつけられる一瞬のすきを狙い、かがみ込んだ看守を思いきり蹴り上げ、気絶させました。すばやく房を飛び出して看守を閉じ込めると、廊下を走り抜けて外に出ます。途中の水場で赤い獄衣を脱いで濡らしました。


 目の前には18尺(約5.5メートル)の高屏がありました。持ったまま獄衣を思い切りたたきつけ、その吸着力を足場に屏をよじのぼり、ついに越えてしまいました。さてその先をどうするか。石狩川の波止場にははるかな対岸にカゴを渡すためのケーブルがあり、寅吉はこれをサルのように伝って渡りきります。なんという体力と運動神経でしょう。こうして彼は、脱獄は絶対に不可能と言われた樺戸の監獄から2度目の脱出に成功したのです。


 樺戸のあと再び彼の記録が現れたのは、強盗で捕まって収監された宮城集治監でした。ここで彼は井上銀次郎という偽名を使い、刑を終えたようです。しかしその後また凶悪な強盗を繰り返し、ついにお縄となって無期刑囚として埼玉監獄署に入りました。そして東京仮留監から北海道集治監釧路分監(標茶町)に送られます。この分監長はかつて空知集治監にいて、寅吉をよく知っていました。40歳を前にさすがに体力と気力は衰え、これ以後の寅吉はおとなしく刑に服すことになります。9年後に網走分監(のちの網走刑務所)に移され、かつての神仏をも恐れぬ極悪非道な強盗犯から一変した従順な作業態度は、たぐいまれな伝説をもった模範囚として、人々の畏敬を集めるまでになっていました。そうして1924(大正13)年の秋、寅吉は刑期を短縮され晴れて自由の身となるのです。故郷の妻はすでに亡く、72歳になっていました。


 釈放のニュースは多くの新聞に取り上げられ、利にさとい興行師は「五寸釘寅吉劇団」という一座を作り、寅吉を主役に全国を巡業しました。この間彼は、2度月形を訪れていますが、監獄はすでに廃監となっていました。かつて2度も脱獄をなしとげた特別の監獄に、何を思ったでしょう。


 寅吉は昭和のはじめには息子のいる故郷の三重に帰り、畳の上で安らかに88歳の大往生をとげたのでした。

巡業していたころの寅吉のプロマイド

月形樺戸博物館に展示されている晩年の心境をうたった寅吉直筆の書
「西に入る夕日の影のある内に罪の重荷を落ろせ旅人」と書かれています