近世の蝦夷地と須部都太(スベツブト)

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

近世の蝦夷地と須部都太(スベツブト)

 今回は、樺戸集治監の歩みを掘り下げていく前に、月形町の前史をさらにさかのぼってお伝えして行きます。


 擦文時代(およそ7世紀から13世紀)中期の10世紀以降、北海道(蝦夷地)と本州北部との交易がしだいに盛んになり、石狩川上流の上川盆地からも、大量に遡上するサケを加工した干鮭(からざけ)などの交易品が、石狩川を下って運ばれるようになりました。この大河流域での、交易のためのサケ漁や動物の狩猟を軸にしたアイヌ民族の営みは、近世まで続きます。


 江戸時代に現在の月形町一帯は、松前藩領の西蝦夷地に属していました。しかし記録に残る大きな集落や、和人の大規模な営みはありません。この地は、主にアイヌの人々が、狩猟などに行き交う土地でした。


 幕末に蝦夷地を6度も踏査した探検家松浦武四郎は、膨大な旅の成果を集大成するように、1859(安政6)年、 「東西蝦夷地山川地理取調図」を刊行しています。全26冊の地図に、数百の河川沿いにつけられたアイヌ語地名を約1万近くもびっしりと書き込んだこの仕事で、 彼は石狩川流域の地名も大量に記(しる)しています。月形付近では、シベツブト(スベツブト・須部都太)、やチライオツ(チライオトナイ・知来乙)、サツツナイ(サッピナイ・札比内)といった、現在につながる文字を読み取ることができます。


 本町が属する樺戸郡や樺戸集治監の「樺戸」という地名は、アイヌ語の「カパト」に由来します。これは夏に小さな黄色い花を咲かせる、水草のコウホネのこと。その実はアイヌの人々の大切な食料であり、根茎は、日本や中国では強壮や止血の漢方薬としても使われていました。樺戸(カパト)には、須部都川と石狩川の合流点一帯で、「コウホネが茂るところ」という意味があったのです。
 

 月形町が位置する樺戸山地の東は、もともと融雪期などに氾濫を繰り返す石狩川水系が営々と作り上げた、 茫漠(ぼうばく)たる湿原地帯でした。視野をさらに広げると、かつて石狩川中流域には3つの大きな原野がありました。美唄市から岩見沢市にかけて広がる「美唄原野」と、江別市から岩見沢市南部へと、夕張川下流を含んで広がる「幌向(ほろむい)原野」、そして当別町から新篠津村、月形町に連なる「篠津原野」です。石狩川の治水整備が進んだ今日では、大部分が市街地や住宅地、農地として開発されていますが、月形町の月ケ湖(つきがうみ)一帯では、いまでもそうした太古の湿原をしのぶことができます。三日月形をした大沼は野鳥の楽園で、三方を小高い丘に囲まれ、大沼と小沼で月ケ湖は、湿原の中にひっそりとたたずんでいます(北海道学術自然保護地区に指定)。

月ヶ湖

月ヶ湖

 伊藤博文内務卿の命を受け、1880(明治13)年4月、蝦夷地での集治監設置調査のために来道した内務官僚月形潔らを待ち受けていたのは、まさにこうした風景でした。調査団には月形の右腕として、のちに樺戸集治監の幹部ともなる海賀直常がいました。
 

 4月末に札幌に入り開拓使庁で打ち合わせを重ねた一行は、5月2日、開拓使からの人員を加え総勢28名で丸木船数隻に乗り込み、雁来村から豊平川を下りはじめます。石狩川本流に出ると今度は上流への遡航(そこう)となり、対雁(ツイシカリ)では、日本とロシアが結んだ樺太・千島交換条約(1875年)に伴って樺太から強制移住させられたアイヌ民族の集落(約108戸)を見ました。恵別(江別)では、屯田兵たちの開墾計画を聞いています。


 ときに転覆の危険に会いながら、濁流を逆らって巨木の森を縫うように石狩川を上っていった月形らは、5月4日の夕刻、ようやく目的地である須部都川の河口に到着。札幌からは22里半(約90km)の長い旅程でした。天幕を張って寝食の準備をはじめると、一人のアイヌが近くの草ぶき小屋で炊事をしていることに気づきます。話をしてみると、生振に暮らすレコンテだと名乗りました。山野に自在に生きる彼は、一人で猟に出ていたのです。土地の情報に飢えていた一行はレコンテに道案内を頼み、彼は協力を申し出ます。開拓の現場で数多く繰り返された、和人へのアイヌの人々の頼もしいサポートでした。


 翌日、レコンテの道案内によって月形らは一帯を踏査。地形を測定し地味を検討しました。山にはナラ、セン、カツラ、シコロ、トドマツなどの大木が鬱そうと茂っています。特にトドマツは監獄獄舎の建材に向いているので、開墾と資材の確保が両立すると考えられました。余剰分は札幌や小樽に出荷すればなお合理的です。


 西北に樺戸連山を負い、東南に大河石狩川を抱えることは最良の要害であり、さらにそのあいだに広がる原野は地味も肥沃。また石狩川の水運は、道路も鉄道もない時代の最良の交通インフラとなります。月形は、黒田清隆開拓使長官があげた3つの候補地、「十勝川沿岸、石狩川沿岸須部都太(スベツブト)、羊蹄山山麓」の中で、この須部都太がまさに集治監建設地に最適であると確信したのです。

 
 6月初旬、月形は調査報告のために帰京。伊藤博文の跡を継いだ松方正義内務卿らに詳細な報告を行いました。 1880(明治13)年10月。総予算10万円をもって収容人員1700人内外の集治監を須部都太に開庁することが決定しました。