月形にちなむ偉人たち-2

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

 

月形にちなむ偉人たち-2

石川啄木と月形を結ぶもの

 貧困と孤独のうちにわずか27歳で生涯を終えた石川啄木は、国民詩人とも称され、日本人の心に末長く響く詩歌をつづった文学者です。今年2012年は、ちょうど没後100年。ゆかりの地でさまざまな行事も計画されています。実は月形も、啄木には浅からぬ縁がありました。郷土史家熊谷正吉さんの研究などをもとにまとめてみましょう。


 石川啄木は1886(明治19)年、岩手県南岩手郡日戸村(現・盛岡市)に、曹洞宗の僧侶の長男として生まれました。一家はすぐ渋民村(同)へ移り、彼が小学校にあがると盛岡市内に転居。盛岡中学時代に彼は与謝野晶子らの短歌に傾倒し、上級生や級友の影響もあって文学への志を抱きます。しかし成績がふるわないことなどから退学勧告を受けて中学を退学。文学で身を立てることを決意して上京しました。英語学校に通いながら文学者らと交わりましたが、就職ができず肺の病もあって失意のうちに帰郷しました。


 しかしやがて雑誌「明星」に投稿した短歌が評価されるようになります。1904(明治37)年の秋には婚約者堀合節子と北海道を旅行しましたが、これは小樽駅の駅長が義理の兄(次姉の夫)だった縁によります。ところが故郷では、父親が宗費滞納のために村を追われ、一家は苦境に追い込まれてしまいました。


 1905年、第一詩集「あこがれ」を自費出版。節子と結婚した啄木は一家の暮らしを支えるべく、1906年に渋民尋常高等小学校に代用教員の職を得ます。このころから小説や評論をさらに積極的に書きはじめますが、翌07年5月、函館の文芸結社との交遊が生まれたことから北海道での新生活を求め、単身で函館に渡りました。


 当初は函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てた啄木ですが、やがて弥生尋常小学校の代用教員となりました。21歳でした。この小学校は、校区に函館区公会堂や旧イギリス領事館、中華会館などを抱える函館山の麓、西部地区にありました。その後小説家の久生十蘭や牧逸馬(林不忘、谷譲次の別名も有)、文学者亀井勝一郎、喜劇役者の益田喜頓らの出身校ともなった函館有数の伝統校です(2009年度に函館西小学校と統合)。


 啄木の日記には、弥生小学校に職を得たことが次のように書かれています。
 

六月十一日予は区立弥生尋常小学校代用教員の辞令を得たり、翌日より予は生れて第二回目の代用教員生活に入れり月給は三給上俸乃ち十二円なりき、職員室には十五名の職員あり校長は大竹敬蔵氏なりき、児童は千百名を超えたり

職員室の光景は亦少なからず予をして観察する所多からしめき、十五名のうち七名は男にして八名は女教員なりき、予は具(つぶ)さに所謂(いわゆる)女教員生活を観察したり、予はすべての学年に教へて見たり
 

 一方で8月に彼は、函館日日新聞記者の仕事もすることになります。新聞社では「月曜文壇」「日々歌壇」といったコーナーを企画する一方で遊軍記者としても活動を開始しました。啄木は代用教員を辞めて、記者一本で暮らすつもりでした。しかし記者になってわずか1週間後。その後ながく語られることになる大火が函館を襲います。弥生尋常小学校や函館日日新聞をはじめ市街地の半分以上、40万坪20カ町を焼く大難でした。彼は焼け出されるように函館を出ました。その後は札幌、小樽、釧路へと放浪するように、短い新聞記者生活をつづけながら、たくさんの歌を詠(よ)んだのです。まさにこの生き方が、漂泊の詩人です。
 

校長は、越後から月形に渡った大竹敬蔵


 さてここから話はようやく月形にちなみます。


 函館の弥生尋常小学校の教壇に立った啄木を見守った校長は、日記にもあった大竹敬蔵で、この人物の実家は月形村(当時)にありました。大竹の出身地は越後で、彼は、前回のこのコラムで紹介した、連合艦隊司令長官山本五十六元帥の実兄である高野譲と同郷だったのです。大竹は兄弟両親ともども北海道に渡りましたが、そのきっかけは、月形にいたこの高野の招きによるものでした。一家は現在の月形町八重垣町に暮らしました。


 敬蔵の兄の涼司はまず樺戸集治監の看守になり、のちには看守長と同等格の上級職、書記になっています。また弟の義近は、集治監の第三代典獄大井上輝前(1891年から4年間在任)に見込まれて養子に入り、のちに理学博士、北大理学部助教授となりました。兄弟はみな優秀な資質の持ち主であったことがわかるでしょう。


 郷土史家熊谷正吉さんは、弥生尋常小学校で大竹敬蔵校長は、啄木の才能を見抜いていたのではないか、と考えています。


 「啄木の奔放な生き方は北海道時代に限らずよく知られていますが、函館時代も、しばしば無断欠勤をして新聞社の仕事をしていたようですね。しかし大竹は彼をクビにしなかった。寛大で温情あふれる態度で接したといわれます。啄木も大竹の人としての大きさを、感じ取っていたのではないでしょうか」
 

 もうひとつ、啄木のこの弥生尋常小学校時代の名高いエピソードがあります。代用教員の同僚だった橘智恵子(たちばなちえこ・1889~1922)との出会いと別れです。


 北海道庁立札幌高等女学校を卒業して函館に来ていた橘智恵子の実家は、札幌の元村(現・東区)にあるリンゴ園でした。啄木は日記の中で智恵子を「真直(ますぐ)に立てる鹿ノ子百合」と表現し、妻子ある身ではありますが強く惹かれました。1910(明治43)年に出版された歌集『一握(いちあく)の砂』には「忘れがたき人(二)」という節がありますが、ここにある22首の歌はすべて、智恵子を詠んだものだったのです。代表的なものを一首あげてみましょう。
 

石狩の都の外の君が家
  リンゴの花の
  散りてやあらん
 

 智恵子はその後北村(現・岩見沢)開拓のリーダーのひとり、北村謹(きん)と結婚しました。啄木が出版したばかりの歌集『一握の砂』(1908年)を送ると、礼状には嫁ぎ先の牧場で作られたバターが添えられていました。


 啄木は釧路を最後に北海道を離れて上京し、1909(明治42)年の早春には東京朝日新聞の校正係となります。そのころローマ字で書いていた日記には、次のような記述があります(1909年4月9日。以下は日本語で表記)。
 

智恵子さん! なんといい名前だろう! あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり! さわやかな声! 二人の話をしたのはたった二度だ。一度は大竹校長の家で、予が解職願いを持って行った時。一度は谷地頭(やちがしら)の、あのエビ色の窓かけのかかった窓のある部屋で――そうだ、予が「あこがれ」を持って行った時だ。どちらも函館でのことだ。
 ああ! 別れてからもう二十ヶ月になる!
 

 啄木が智恵子とはじめて親しく言葉を交わしたのは、彼が小学校を辞する決意を告げに訪れた、大竹敬蔵校長の家でのことだったのです。