最初の囚人たち

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

最初の囚人たち

 月形潔らが1880(明治13)年5月に行った立地調査によって、集治監建設地はシベツ太(シベツ川が石狩川に合流する一帯)に決まり、所管する内務省(時の内務卿は松方正義)はいよいよ建設に着手します。工事を請け負ったのは、前年に宮城集治監(通称六角塔)を建てていた大倉組。当初3000人を収容する監獄として23万円を要求していた予算は、結局10万円に減額となってしまいます(現在の金額に換算するとこの1~2万倍程度)。そこで獄舎の棟数を減らして、1700人規模の計画となりました。


 工期は2年に満たない厳しいスケジュールです。 1880(明治13)年の冬に近隣の樹木を伐採して、雪を活かして原木を搬出。その他の資材も、凍結した石狩川の氷上を運んで搬入します。翌年の春を待っていよいよ着工。まだ雪解けの森と大地に抜かる中、獄舎の土台をコンクリートで固めると、トドマツの一尺丸太をそのまま積み重ね、内側は八分板(厚さ約24 ミリ)を張っていきます。塀の高さは1丈2尺(約3.6 メートル)。高見張りも据えられました。施設の建坪を合わせると4300坪以上にもなり、当時の北海道で最大規模の大工事でした。


 工事が8月末にようやく竣工すると、現地調団団長であった月形潔を初代典獄(監獄長)に、樺戸集治監は1881(明治14)年9月3日(土)開庁式。同15 日(木)から業務が開始されます。


 しかし実は最初の囚徒が入ったのは、その5月のことでした。どういうことでしょう。


 彼らは、東京の小菅集治監から移送されてきた39 名でした。全員が終身懲役囚です(40名の予定が1名は搬送中に死亡)。工事がまだ続いているうちの移送には、彼らを工事人として使う狙いがありました。すなわち囚徒を働かせれば建築職人の手助けとなり、また収監後の外役の実験ができ、それが建設費の節約にもなる。 1石3鳥のプランでした。


 この計画を立てて実際の移送にも当たったのは、月形と同じ福岡県出身の初代警守課長兼興業課長、海賀直常です。月形は福岡藩出身で、海賀の出はその支藩である秋月藩。海賀の方が4つ年上でしたが、二人は内務省時代の同僚でもあり、海賀は月形が率いた北海道巡視に喜んで参加していました。


 さて海賀は囚人たちを、東京からまず汽船で小樽に運びます。小樽からは、開通したばかりの鉄道(手宮線)で札幌に入る予定でした。小樽に着くとどこか空き倉庫でも借りて宿にしようという心づもりでしたが、小樽の人々は囚徒に恐れをなして誰一人貸す者はいません。そこで海賀はとんでもない奇手に出ます。客としてなら拒むことはできまいと、妓楼(遊女屋)に一夜の宿を申し込んだのです。

 こうして、赤い囚衣をまとって股引姿の恐ろしげな男たちが、分厚い座布団に鎮座して高脚のお膳につき遊女たちに飯を盛らせるという、希代の情景が繰り広げられました。後年海賀はこのときのことを「其の奇観実に言語に堪へたり」と書いています(「月形村史」月形村沿革史誌)。宿の主人や小菅から同行した看守たちはあっけに取られましたが、いちばん驚いたのは囚人たち自身であったかもしれません。


 このあとも一行は、鉄道への荷物の運び込みに難儀したり、朝里の鉄橋が大雨に落ちて小樽に3日足止めを食らったり(さすがにもう妓楼には泊まれず、寝場所を確保しながら、小樽で看守4名を増員として調達)、荷物を後回しにして札幌に着き、さらには月形までの船が揃わないために札幌監獄に一週間世話になるなど、波瀾万丈の道中が続きます。ようやく石狩川に入っても、シベツ太まではなお2泊を要しました。(この豪快な仕事人海賀直常は、のちに集治監の職が解かれても月形に留まり、多くの公職を務めた人物として知られています)


 開庁後の後集治監には、ぞくぞくと囚徒が送り込まれました。9月末までに300名、11 月160名。5月に工事要員として入った40名を加えると、開庁の年(1881 年)の年末には、すでに500名が収納されていたのです。


 初期の集治監の組織はどのようなものだったでしょう。日本の集治監の職制は一般に典獄、副典獄、書記、看守長、看守、司獄官吏などからなっていましたが、樺戸の場合には予備的な看守も置くことになり、開庁の年の12月には、看守長3名と看守50名が増員されています。そしてほどなく、看守はみな銃器の携帯が許されることになりました。


 伊藤博文内務卿が1879(明治12)年に北海道への集治監設置を構想した際、施設の警護のために近傍に鎮台(各地駐屯の軍隊。のちに師団)を置くことが構想されていました。しかし北海道での鎮台はまだ実現には遠く、その代わりを務める屯田兵の配備も進んではいません。なにしろ内陸の交通網がわずかしか存在していなかったのです。また樺戸では伐木や開墾などの外役が多くなるために、囚徒が使う道具が武器になりかねません。樺戸集治監の看守が全員武装していたのにはこうした背景がありました。


 そうした警備の中、囚徒たちは原始林に立ち向かい、月形の開墾に着手していきます。

海賀直常

海賀直常