月形にちなむ偉人たち-1

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

月形にちなむ偉人たち-1

今回は、ふたりの看守長にちなむ人物誌です。

洋画家 上野山 清貢(うえのやま きよつぐ)


 洋画家の上野山清貢は、苦節の時代を経て帝国展覧会(帝展)に初入選(1924年)するやその後連続して特選をとり、栄えある無鑑査出品作家となった、本道出身画家の代表的存在のひとりです。


 上野山は、1889(明治22)年、江別村(現・江別市)の生まれ。父は官吏で、清貢が小学生のときに樺戸集治監(当時の名称は北海道集治監樺戸本監)の看守長として月形に赴任したので、家族で月形に移り住みました。清貢は月形尋常高等小学校に転入して、同校を卒業しています。


 1909(明治42年)、代用教員として札幌の小学校に勤めながら、同志と「エルム画会」を結成。画家への夢絶ちがたく、1912年に上京すると太平洋画会研究所に学び、黒田清輝らの指導を受けました。貧しい生活の中で、絵画への精進の日々がつづきます。
 1915(大正4)年には札幌出身の新進女流作家である素木(しらき)しづと結婚しましたが、しづはほどなく結核に倒れ、息を引き取ります。結婚生活はわずか2年ほどで終わってしまいました。1920年に再婚し、変わらぬ貧しさの中で制作をつづけた結果、1924年、念願の帝展初入選を果たします。35歳という、遅咲きの栄誉でした。
 以後は1930(昭和5)年に帝国美術院会員になるなど、大家への道を歩みました。


 初期の作品はとりわけ、力強いタッチからゴーギャンに比較されて評価され、上野山自身もゴーギャンへの思いを胸に南洋諸島を旅して、画業の糧としたこともありました。雄大な風景やアイヌ民族など、北海道ならではのテーマにも積極的に取り組みました。戦後は全道展の創立にも力を尽くしています。
 月形には、月形樺戸博物館や月形小学校などに上野山の作品が所蔵されています。


 1960年に彼が没する10年前、1950(昭和25)年に月形町役場から発行された『樺戸監獄史話』(寺本界雄)には、月形での少年時代を回想した上野山の随筆があります。少し抜粋してみましょう。


 「石狩川の湾曲部が大きく鍋ヅルのように平原を流れて、月形村を抱くように包んでいるかのようであった。夕方など監獄の裏山の低い円山に登って此の平野をながめると三カ月形の流れににぶい陽があたって流れの速さなど全くわからず、静かな半月のようにたまらなく少年の心をそそったものである。月形村というのはこれから出たのかと考えたりしたことがある」


 「江別まで通う外輪の蒸気船があった。これがまたひどく古風な趣を添えていた。むしろエキゾチックなものだった」


 「監獄の西北に小さな沼があった。この沼に赤どじょうが棲んでいた。鰌(どじょう)の色は、一寸囚人の赤い着物の赤色があせたような色をしていた。監獄の池だから鰌まで赤いベベを着ているなど(※)いい伝えられていた。南京玉を二ツくっつけたような黒い目が異様でうす気味悪かった。
冬が来て、此の沼が氷り(※)はじめるとここで氷辷(すべ)りをやった。毎朝早く氷の上にパラパラとふりまかれたような、霰(あられ)雪を箒(ほうき)ではいて、鏡のようにスベスベ光る、艶のある氷を辷る楽しさは、月形での少年時代のたのしいたゞ一つの思出(※)のものである」(※は原文のママ)


 この赤いどじょうの話について郷土史家の熊谷正吉さんはこう言います。
「吉村昭先生が樺戸集治監を題材にした『赤い人』で描いたように、囚徒たちはつねに全身赤い囚服を着せられていました。だから囚徒たちは赤どじょうを、脱獄に失敗したり過酷な労役で死んだ仲間の化身だと考えました。死んだ囚徒がどじょうになったのだ、と。看守たちも、このどじょうの出現を大いに恐れた、という話が伝わっています」



山本五十六元帥の兄 高野 譲(たかの ゆずる)


 上野山の父と同じ看守長を務めた人物に、高野譲がいます。そして高野は、大日本帝国海軍連合艦隊司令長官であった山本五十六(いそろく)元帥の長兄でした。


 五十六の生家高野家は、旧越後(現・新潟県)長岡藩士の家柄。名前は、生まれたときの父の年齢からつけられました。一方で山本家は、代々長岡藩の家老職をつとめた、1300石の名家でした。


 1913(大正2)年、両親を亡くしたこの年、五十六は海軍大学校に入学。そして在学中の1915年、旧長岡藩主牧野忠篤子爵らの口添えで山本家を相続することになります。1916年(大正5年)12月、海軍大学校を卒業。少佐の時代には米国ハーバード大学へ留学するなどエリートコースを経て、日米開戦の口火となった真珠湾攻撃(1941年12月)の総指揮を取り、1943年春、パブアニューギニア上空で戦死するまで、太平洋戦争の第一線を率いました。


 五十六に比べて譲の生涯は詳しくわかっていません。熊谷正吉さんの研究によれば、高野はすでに1881(明治14)年の樺戸集治監開庁のころから月形に移り、月形村字旭町にあった集治監の幹部官舎に住んでいました。筋向かいには集治監筆頭書記の徳末楯夫がいて、ともに月形潔典獄のサポートに当たりました。


 高野は、旭川までの開拓に決定的な役割を果たした上川道路の開削や、当別道路、増毛道路の工事を指揮して、北海道にとっても重要な仕事をなしました。
 また、明治の激動に見舞われて行き詰まった郷里の農民たちによって結成された、「北越殖民社」を月形村知来乙(ちらいおつ)に迎え入れることにも尽力しました。同社はやがて江別への再入植に取り組みますが、特筆される成果を収めた団体として、北海道開拓史に重きをなす存在です。