短期間の在任に終わったふたりの典獄

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

短期間の在任に終わったふたりの典獄

 1910(明治43)年3月に長屋又輔が退任したあと、第6代典獄に就任したのは五十嵐小弥太(こやた)です。


 五十嵐は越後出身で、月形に来る前には長野や広島、新潟の監獄で典獄を務めました。彼が着任したのは、1910年5月。ちょうど樺戸神社の春祭りの日でした。樺戸神社は、樺戸集治監開庁の翌年、1882(明治15)年11月に札幌神社(現・北海道神宮)の分霊を受けて創建された、管内有数の歴史を持つ神社です(1970年に現在地に移築遷座)。


 おりしも着任当日、監獄の看守合宿所から火が出て全焼してしまう事故がありました。第1課長がこの火事を報告に赴いたところ五十嵐は、心配することはないと、意に介さなかったといいます。泰然としてふところの大きな人物であったのでしょう。『月形町史』(1985)ではその人となりを、「宏大無辺の人物」と記しています。

 6代目典獄:五十嵐小弥太(こやた)

6代目典獄:五十嵐小弥太(こやた)

 五十嵐典獄はスケールの大きな発想力から、石狩川に吊り橋を架けることを構想しました。しかし囚徒の脱走を恐れる川向こうから大反対が起こり、実現にはいたりませんでした。その代わりに、須部都川に須部都橋を作りました。現在の須部都川は流れの細い小河川ですが、その時代はちがいます。1976(昭和51)年に農業用水確保などのために月形ダムができるまで、須部都川は、樺戸山系の森が生み出す豊かな水を石狩川に注いでいました。


 残念ながら五十嵐は、精神はともかく、月形で存分に仕事をするにふさわしい体力を持ち合わせませんでした。この年の暮れには体をこわして退任を余儀なくされ、まちを離れてしまいます。歴代典獄の中で最も短い、10カ月にも満たない赴任でした。この短い時間のためにまちには顔写真も残っていなかったのです。しかし1996(平成8)年に「月形樺戸博物館」がオープンする際、その準備の過程で大きな発見がありました。郷土史家の熊谷正吉(月形町郷土史研究会会長)さんが、1898(明治31)年に東京で撮られた、五十嵐も写っている集合写真を発見したのです。


 五十嵐のあと第7代典獄となったのは、水戸(茨城県)出身の黒澤迪(すすむ)です。黒澤は内務省警保局(警察を所管)でキャリアを重ね、1910(明治43)年の暮れに赴任しました。黒澤の父は勇壮な水戸藩士で、彼らが尊皇攘夷の大義をもって開国派の大老・井伊直弼を江戸城桜田門の外で暗殺した(1860年の桜田門外の変)さい、大老に一刀を浴びせたひとりであったといわれています。

7代目典獄:黒澤迪(すすむ)

7代目典獄:黒澤迪(すすむ)

 黒澤は、長屋典獄(在任:1901~1910年)が進めた農業潅漑溝の整備に力を入れ、須部都川からの取り入れ口を石やレンガで固めて永久施設として強化しました。また監獄の北農場にため池を建設して約40ヘクタールの新田を開くなど、農業の生産力アップに尽力しています。しかし1913(大正2)年の春には退任。彼もまた、2年に満たない短い在任に終わり、村民を嘆かせたといわれています。


 五十嵐と黒澤は、ともに短い在任におわったため、月形に残る資料も多くはありません。しかし2005年の秋、囚徒によって本堂が建てられた(1910年)寺として知られる北漸寺(前回コラムで紹介)で、興味深いものが見つかりました。納骨堂の改修のために物品整理を行っていたところ、木箱に収められた名刺の束の中から、5代典獄長屋又輔、6代五十嵐小弥太、7代黒沢迪典獄の名刺が出てきたのです。見つけたのは、前述の熊谷正吉さんでした。

木箱に収められていた名刺(月形樺戸博物館本館展示)

木箱に収められていた名刺(月形樺戸博物館本館展示)

 いずれも現在の名刺より大きく、縦10センチ横6センチほど。長屋と黒澤のものには「樺戸監獄典獄」という肩書きがあり、五十嵐の名刺は名前だけでした。同時に、明治末期の月形村村長であった岩橋佐吉の名刺も見つかりましたが、こちらの大きさは現在の名刺の標準サイズ(縦9センチ横5.4センチ)。


 明治の中期まで樺戸の典獄は樺戸・雨竜・上川三郡の郡長と樺戸警察署長を兼ねていました。つまり、月形の村長よりもずっと大きな権威や権限をにぎっていたのです。熊谷さんは、この名刺の大きさの違いからも、典獄がもっていた強大な権威がわかる、と語っています。


 このころの北海道全体に目をやると、日清戦争(1894・明治27年)のころより内陸部の開拓が本格化して、20世紀の幕開け、1901(明治34)年には北海道の人口が100万人を超えました。1910(明治43)年からは、全道を対象にした新たな15年計画である第一次拓殖計画がスタート。北海道庁が発足した1886(明治19)年には全道で約3万ヘクタールにすぎなかった耕地は、明治の末年、1912(明治45)年には60万ヘクタールにも拡大していました。これはすでに、今日の耕地面積の半分強にあたります。そのころ北海道の人口も、160万人を超えるまでに増加していました。


 樺戸監獄(1903年から1919年まではこの名称)の歴史が終盤に近づくにつれ、内地から見た新天地北海道の開拓は、いよいよ軌道に乗ってきたのです。