月形潔、来道

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

月形潔、来道

 樺戸集治監開庁にいたる、初代典獄(監獄長)月形潔の仕事についてまとめてみましょう。


 月形潔は、1847年(弘化4)、福岡藩士の子として遠賀郡中底井野村に生まれました。この年は、江戸時代最後の天皇となる孝明天皇(1831~1867)が即位した年でもあります。年上の叔父の月形洗蔵は、尊皇攘夷を唱える筑前勤王党の首領でした。


 1868(慶応4)年(明治元年は1868年10月23日から)、藩の命で京都に学び、奥羽を探索。江戸で藩の軍用金の警備などにあたり評価を得ます。


 維新ののち、潔は新政府に雇われます。執政局や御軍事局で仕事をしたのち、福岡藩権少参事となりました。今日でいえば警察官僚です(明治4年旧暦7月に廃藩置県が行われるまで、全国の行政単位はまだ「藩」にありました)。そののち司法省(東京)に出仕。1874(明治7)年2月には前稿でもふれた佐賀の乱の鎮圧のために佐賀に赴き、8月にはプロシア人殺人事件の捜査のために函館に渡っています。 75(明治8)年には権少検事となり東京裁判所詰めに。 76(明治9)年には正七位(しょうしちい)に出世。その後鹿児島裁判所などに赴任し、1879(明治12)年、内務省御用掛となりました。時の内務卿は、伊藤博文(明治18年に初代内閣総理大臣)です。


 1878(明治12)年、元老院(当時の立法機関)などでの議論をふまえ、内務卿伊藤博文がひとつの建議書をあげました。「社会を乱した凶悪犯や政治犯たちは、ただ徒食させることは許されない。ロシアへの備えの意味からも開拓が急務である北海道に送り込んで、開墾や道路建設などにつかせるのが良い」とするものです(当サイト第2回)。そうして北海道に重罪犯を収容する監獄を設けることが決まります。場所の選定調査から立ち上げにいたる責任者が、初代典獄(監獄所長)に内定した月形でした。建設地の候補として、北海道開拓使黒田清隆長官は、「蝦夷富士(羊蹄山)山麓」、「十勝川沿岸」、 「樺戸郡シベツ太」の3カ所をあげていました。

 1880(明治13)年4月18日、月形潔は 海賀(かいが) 直常(なおつね)、小田為孝(ためたか)、佐藤(はじめ)、中井美俊(よしとし)、吉川貞夫、守口如瓶(じょへい)、筑紫寛亮(かんりょう)を率いて、汽船兵庫丸で横浜を出帆します。 21日に函館に入り、函館監獄や七飯村の勧業試験場などを見学。試験場では湯地定基権少書記官(薩摩出身でマサチューセッツ農科大学に留学)から、集治監の場所として羊蹄山麓を示唆されました。


 ついで一行は二手にわかれ、海賀らは有珠から羊蹄山麓をまわって十勝へ。月形班は陸路で森に向い、汽船で室蘭へ。そこから陸路で白老、苫小牧、千歳を経て、4月29日に札幌に入りました。月形は開拓本庁で 調所(ずしょ) 広丈(ひろたけ) (薩摩出身で札幌農学校初代校長)大書記官や鈴木権大書記官と会い、彼らから「樺戸郡シベツ太」を推薦されます。重罪人収容に適した未開の原野でありながら石狩川の水運を開発すれば札幌にもほど近く、土壌も農耕に適している、という理由でした。


 5月2日。月形潔らは開拓使8等属船越長善の案内で豊平川に面した雁来まで歩き、そこから丸木船3隻で、シベツ太めざしてさかのぼります。国家の一大事業に際して、調所も雁来まで見送りに来ていました。江別からはいよいよ濁流うずまく石狩川本流に入り、対雁(ついしかり)、石狩川沿いの江別屯田兵村(ここでは開墾状況なども取材)、幌美里(ほろみり)などを経て、 何度も転覆の危機をかわしながら5月4日、三日がかりでシベツ太に到着しました。一行はここで、生振(おやふる。現・石狩市)から狩猟のために来ていたアイヌのレコンテと出会い、道案内を頼みます。一帯の眺望が効く場所(月形の日誌で須倍津川より南方の山、須倍津山)に登ると、背後に山がせまり、正面には石狩川、あいだに地味豊かな土地が広がっています。調査行を記した「北海回覧記」で彼はこう書きます。


「横緯凡そ二里餘西北に山を負ひ東南に大河を帯び原野廣延甚しき高低なく而して地味も亦極めて肥沃なれば其耕農の業を起こす此地をもって北海第一と称するも敢て誣妄の言と謂ふ可らず、況んや百物運搬の便否を考ふるも石狩川へ小汽船を運轉せしめ以て石狩、小樽両港と相往復するを得べく又須倍津より當別村に至るの間陸路直徑五里にすぎず故に道を開き、橋を架し以て人馬通行の便を起こし、電信、郵便以て通信の便を開かば庶民輻輳の地となるは豫じめ期すべきなり、豈是地を措て他に又良地あるを知らんや」


 羊蹄山麓と十勝を調査した海賀直常の班はどうであったでしょう。札幌で落ち合ったところ、「羊蹄山麓は農耕地としては良いが重罪人を移すには人家が近すぎる。また十勝は、陸にはアクセスの道がなく海も遠浅で船に向かない」といった報告がありました。


 月形潔はただちに調査結果を伊藤博文内務卿に報告し、同時に開拓使と建設地の区画割りの調整を進めます。 5月25日、月形らは再び測量師や請負師(仙台集治監を施工した大倉組)を連れて現地に入りました。こうして事業計画を一気にスタートさせると、6月3日、月形潔はひとまず札幌を離れ帰京したのです。樺戸集治監の歴史は、こうして月形潔のひと月半あまりの調査行によってはじまったのでした。

 月形潔
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