1881(明治14)年9月3日 樺戸集治監開庁

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

1881(明治14)年9月3日。樺戸集治監開庁

 北海道史において1881(明治14)年は、まず「開拓使官有物払下げ事件」があった年として注目されます。明治になって北海道開拓を急ピッチに進めてきた政府機関である開拓使は、開拓使10年計画(1872~1881)の終了と共に役割を終えることになりました。そこで開拓使長官の黒田清隆が、それまでの開拓事業の成果であるビール工場、砂糖工場、炭鉱、船舶などを、同郷(薩摩)の部下などに格安で払い下げようとしたところ、世論が激しく反発したのです。反発はまた、薩長などによる藩閥政治をあらため、憲法の制定や議会開設を求めた自由民権運動のうねりとも密接に関わっていました。
一連の動乱の結果払い下げの中止が決まり、実力者大隈重信の免官、10年後の国会開設と憲法制定などが定められました。世にいう「明治14年の政変」です。


 さらにこの年の9月、開拓10年計画終盤の現場を視察するために、明治天皇がはじめて北海道を巡行しました。小樽から札幌へは、その前年(1880)年11月に北海道初(全国で3番目)の鉄道として開通していた幌内鉄道が利用されました。


 月形に樺戸集治監が誕生したのは、開拓使が一定の使命を果たし、全国では憲法制定や議会の設置への気運が高まっていた、こうした大きな変革の時代でした。

 さて、そもそも集治監とはどんな施設なのでしょう。集治監は、今でいえば重罪犯を収容する特別な刑務所。徳川時代、重罪人は各地の藩ごとの監獄が扱い、罪によって伊豆七島や隠岐などに流されていました。藩の制度を廃止した明治の廃藩置県(1871 年)によって、受刑者は府県の監獄が収容するようになります。しかしまもなく、明治政府を主導した旧薩摩藩や長州藩のリーダーたちが進める政治への不満が募り、各地で旧士族の反乱が勃発しました。
1874(明治7)年の「佐賀の乱」、76 年の熊本の「神風連の乱」、福岡の「秋月の乱」、山口の「萩の乱」などです。そして1877(明治10)年には維新の立役者であった西郷隆盛を担ぐ、大規模な西南戦争が勃発します。立ち上がった旧士族たちはいずれもやがて政府に鎮圧されて敗北を喫っし、首謀者たちは重罪人のレッテルを貼られることになりました。


 こうした旧士族の重罪人たちは、騒乱が起こった各県の監獄に収監される手はずになります。しかしその数があまりに多かったために、内務省が一元的に直轄する専用施設が必要になりました。これが集治監です。集治監は1878(明治11)年、まず東京(小菅集治監)と仙台(宮城集治監)に建てられ、3カ所めとして北海道が選ばれます。なにしろ当時の北海道の内陸の多くは未開の原野が広がり、本州から見ればまさに最果ての流刑地ともいえる土地でした。


 立地調査の段階から初代の典獄(監獄長)となるまで、北海道の集治監立ち上げに深く関わったのは、福岡藩出身で内務官僚だった月形潔(1847~1894)でした。

 樺戸集治監の開設には、さらに北海道の開拓という重要な目的がありました。


 1879(明治12)年、内務卿伊藤博文が太政大臣三条実美に建議書をあげます。社会を乱した凶悪犯や政治犯たちは、ただ徒食させることは許されない。ロシアへの備えの意味からも開拓が急務である北海道に送り込んで、開墾や道路建設などにつかせるのが良い、とするものです。集治監によって国の治安は維持され、北海道の開拓は進み、さらに刑期を終えたあとは北海道に定住させれば土地の発展に貢献できる。政府にとっては良いことずくめでした。この建議が受け入れられ、集治監の計画が進められることになりました。
北海道に送られるのは刑期12年以上の重罪犯とされました。


 1880(明治13)年5月、月形潔を団長とする集治監選定の調査団が来道。羊蹄山麓や十勝川流域などの候補地の中から、石狩川をさかのぼった須部都地方を選びます。現在の月形町です。背後は樺戸や増毛の山地、手前には石狩川が行く手を塞ぎ、石狩川の水運が活用できることが大きな利点でした。道路が未整備な当時は、1872(明治5)年に仙台岩出山藩一行が石狩川と当別川をたどって当別に入植して以来、この大河の中流域には先住のアイヌ民族以外に定住者もほとんどありませんでした。


 敷地7400坪という日本一の規模をもって、獄舎や管理庁舎、官舎などの工事が大倉組によって急ピッチで進められ、1881(明治14)年9月3日、樺戸集治監の開庁式が行われました。最初の囚徒は、小菅から移送された終身囚39名(40名のうち開庁前にひとり死亡)。囚徒はその年のうちには一気に約500名へと増えました。彼らは、万一逃亡したときでも発見されやすいように、ひときわ目を引く赤い囚衣を着せられました。これが俗に集治監の囚徒をさす、「赤い人」のいわれです。

本町通りからの集治監
本町通からの樺戸集治監(開庁の翌年の明治15年)

 囚徒の半数以上は懲役終身、無期徒刑の重罪犯。主な罪名には強盗、強盗傷人、謀殺、放火、窃盗などもありましたが、先述したように士族の乱や自由民権運動に関わる政治犯の多さが特筆されます。こうした政治犯たちはさぞや無念の思いで連れられてきたことでしょう。まったく未知の土地で、本州では想像もできない厳しい寒さや、脱出不可能な牢獄への恐怖もつのります。


 かくして集治監ではまず、満足な道具も持たない工事未経験者が土にまみれて、薄暗い原始林の大木を切り倒し、抜根や根焼き作業に追われる日々がはじまりました。石狩川の水運を整備するために、浚渫や流木の処理なども進められます。倒れる大木の下敷きになったり疲労のために心臓麻痺を起こすなど、作業中の死者も珍しくありません。それは以後4年にわたる月形潔の在任中だけでも、300名を超えました。


 集治監の開設に伴い、一帯には看守やその家族も移り住み、輸送や物資の納入などに関わる出先も増えていきます。集治監を中心に、石狩川中流に新しいまちが一気に生まれたのです。 1881(明治14)年当時の札幌の人口は、ようやく約9000名。札幌から旭川への道路もまだまだ存在していませんでした。


 集治監はシベツ太(シベツ川が石狩川に合流するところ)にありましたが、シベツは死別にも通じるとして、村の名前を新たに考えることになりました。そして典獄代理の海賀直常ら幹部や村の在住者たちの話し合いによって、「月形村」と決まります。初代典獄(監獄長)月形潔の名を取ったものでした。


樺戸集治監(現月形樺戸博物館)