樺戸集治監の終幕

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

樺戸集治監の終幕

 1913(大正2)年。この年は北海道史上稀に見る大冷害の年として語り継がれています。年明けから、鹿の凍死が相次いだという言い伝えがあるほどの寒気が続き、これが居座りつづけます。季節がめぐっても、田畑には収穫に値する作物がほとんど実りませんでした。


 そんな中で新十津川村の玉置直治は、田の中に、頭をたれるほど結実している稲がたった2本あるのを見つけます。これがのちに「玉置坊主」と名づけられ、冷害に強い米として北海道の米づくりを支えた米でした。


 さてこの年の春、大河石狩川沿いに新十津川村を下った月形村(現・月形町)では、8代目となる典獄、関省策が赴任しました。

8代目典獄:関省策

8代目典獄:関省策

 関の人となりはよくわかっていません。『月形町史』では、「東京の人で、札幌からの栄転である」と書かれています。就任早々の5月。監獄用地の一画で密作をしていた者が、不注意で野火を出してしまいます。春の強風にあおられ見る間に燃え広がりたいへんな騒ぎになりました。関は消防団と村の男たちを総動員して消火にあたり、火防線を切ってなんとか消し止めます。広大な山野が1週間にわたって燃えたこの騒動が、大きな初仕事となりました。


 その後関は、武道と教育を重視して、清澄町(現在の月形小学校校庭)にそのための施設を建てました。

現在の月形小学校

現在の月形小学校

 小学校には図書館を設けています。また1915(大正4)年11月に京都で大正天皇の即位の礼が行われましたが、それを記念して月形小学校に記念館を建て、これを作法室としました。さらに町内の円福寺(真宗大谷派)には、監獄の玄関を払い下げています。寺ではこれを庫裏の玄関にして2枚戸の大門を設けました。このような事績を見ると、典獄の仕事が監獄の中だけに限らないことがよく見て取れるでしょう。円福寺の大門のように、関は村の美観にも気を配っていたのでした。

円福寺

円福寺

 1903(明治36)年、日本の監獄制度が大きく改められ、特別な囚人を収容する「集治監」という施設が廃止となりました。

樺戸集治監 
樺戸集治監

 以後樺戸集治監は「樺戸監獄」という名称となり、一般の監獄のひとつとして、司法大臣の直轄下に置かれていました。


 大正期(大正元年は1912年)に入り、月形村の入植と開拓が進展して行くにつれ、やがて監獄の存在が村の発展のさまだけになるのではないか、という考えが人々に起こってきます。広大な監獄施設と監獄農場があるために、一般の開拓民の入植が進みづらくなっていたのです。


 また樺戸集治監設立の大目的だった政治犯の収容についても、世上が安定して日本の近代化が進展するなかで囚徒が減少し、一般の監獄で扱うことが容易になりました。さらに北海道の監獄が囚徒に強いてきた厳しい土木労働への批判も、強くなっていました。


 1914(大正3)年、ヨーロッパを戦場に第一次世界大戦が勃発。これがめぐりめぐって、北海道の農業と商業に未曾有の好景気をもたらします。参戦国が不足した食糧を世界に求めたために、豆や馬鈴薯など北海道の農産物の価格が、世界市場に直結して急騰したのです。未曾有の冷害に打ちのめされていた北の大地は息を吹き返し、十勝に豆成金、羊蹄山麓にいも成金がぞくぞくと生まれました。小樽商人は、世界を相手に大商(おおあきな)いを展開しました。


 この好況がまだ続いていた1919(大正8)年1月。樺戸集治監の廃監が決まります。明治14年開庁にはじまる39年の歴史に、ついに幕が下りるのです。


 同年2月には旭川分監が旭川監獄に昇格となり、樺戸の事務書類や以後の事務は旭川監獄に引き継がれました。それに伴い、囚徒たちも旭川へ移されます。第8代関省策は、最後の典獄となったのです。


 廃監後の樺戸監獄の土地や施設、道具などはどうなったのでしょう。このときまで囚徒たちが開いた水田は約50haで、畑は223ha。本監や出張所の敷地その他を合わせると、樺戸監獄にはおよそ5000haを超える広大な土地がありました。これらは村が一時借用したのち、1921(大正10)年には、金森保太郎や石本熊一郎といった地域の実力者や、新宮商会、三井合名株式会社などの有力企業に、数百haの単位で分割されていきました。


 監獄の巨大な建物群はほとんどが売却、移設され、村には倉庫や官舎、典獄住宅の一部などが残されただけでした。また監獄で使われた家具や膨大な道具などの財産は競売にかけられ、数十名の古物商が全道から集まりました。それぞれの単価は低かったものの、売り上げのトータルは100万円にのぼったといわれます。米価を基準に考えると今日の10億円を超えるでしょうか。


  『樺戸監獄史話』(寺本界雄、1950年)には、「直径9尺もある味噌、しょう油を仕込む大樽が、25~6円の安価で落札され、ゴロゴロ音を立てて街中を転がされ、運ばれていったのも見物であった」とあります。