花山貯水池に眠る事件
月形町には、月形ダムや札比内貯水池、豊ケ丘貯水池、花山貯水池など、樺戸山系の山に向かっていくつもの貯水池があり、まちの農業を支えてきました。その中で花山貯水池は、集治監に最も深く関わるエピソードをもつ貯水池として知られています。
花山貯水池は1913(大正2)年、北農場地区の造田を進めるために造られました。その後改修が重ねられて今日の姿となりましたが、この名前は、集治監の看守だった花山友吉にまつわる、ある恐ろしい事件に由来するのです。月形町郷土史研究の第一人者熊谷正吉さんの話などをもとに綴ってみましょう。
事件は、1909(明治42)年5月29日の夕方に起こりました。囚徒たちはその日も労役に出ていましたが、一日の仕事が終わり、看守に率いられて監獄(当時は「樺戸監獄」という名称)に帰るところでした。
菊地文治看守に引率された34名のうち、強盗罪で17年の刑期を受けていた矢野善斉と、強盗傷人によって15年の懲役につく雨宮浜十が、すきを見て逃走してしまったのです。
監獄ではすぐさま非常線を張り、看守総出で一帯の捜査を開始。しかしふたりを発見することはできませんでした。
看守の花山友吉は、その日はたまたま非番でした。そして私用をすませて帰宅する途上で、偶然この逃走囚を見かけます。目立つ赤い服を着て顔もよく知っている囚徒を見逃すわけはありません。
勤務中であればサーベルや捕縄など七つ道具を持っているのですが、この日は丸腰。しかし花山は果敢につかみかかりました。ふたりも命がけです。鬼の形相で逆に花山に襲いかかり、道路脇に引きづりこみます。花山は顔と頭をめった打ちにされ意識を失いました。
もはや後に引けなくなったふたりは、花山を殺害してしまいました。捜索隊が遺体を発見したとき、恐ろしいことに喉(のど)と目にはイタヤの枝が打ち込まれていたといいます。
現場に囚徒の姿はもちろんありません。消防団員なども協力してさらに規模を増した山狩りが行われましたが、ふたりのゆくえはようとして知れないまま。
しかし6月3日の夜。ふたりは、監獄からわずか4丁しか離れていない北農場の掛畑亀蔵の牛舎のそばに現れます。牛の世話をしている奉公人の少年が、積みあげた丸太の上で小便をしようとしてふと下を見ると、赤い服が見えたのです。
脱走事件は村中に知られていましたから、少年は「おじさんは囚徒か?」と声をかけます。と同時に、ふたりは持っていた金てこで襲いかかってきました。
恐怖に駆られた少年が思い切り叫ぶと、すぐさま警戒中の看守の呼び子(小型笛)が鳴り響きました。つづいて、あちこちで合図のピストルが空に乱射されます。農民たちも、鎌や鍬(くわ)、槍などを手に家を飛び出しました。
その中には、花山看守の長女で16歳の花山あきのの姿もありました。
ふたりは夜陰に乗じて、農場の脇を流れる農場川沿いに逃げました。追っ手もこれに気づいて流れの両側からじわじわと追い詰めます。果たして、川の中でササの葉のかたまりをかぶって息を殺しているふたりが闇の中にうっすらと見えました。囚徒にとっては、万事休す。
矢野善斉は川の土手を駆け上がろうとしましたが、途中で看守の岩山鈕治の剣に倒されます。岩山は仲間の仇(かたき)とばかりに、囚徒をめった斬りにしました。もうひとりの囚徒雨宮浜十も、看守部長の高野辰次郎に斬られ、足に重傷を負ったまま数丁逃げましたが、やがて月形小学校の裏の麦畑で一団につかまり、こちらもめった斬りにあいました。
郷土史家熊谷正吉さんは、1881(明治14)年から1919(大正8)年にいたる樺戸集治監38年に歴史において、「花山看守殺し」は最大の不祥事だった、と言います。そしてこの事件は最も凄惨(せいさん)な犠牲を出しました。
看守たちがよってたかって斬りつけたふたりの遺体は、骨まで断たれていたので持ち上げることができず、スコップで戸板に移して、監獄の医務室のとなりにあった屍室(ししつ)に収容されたのでした。
監獄では翌日の深夜、眠りについていた囚徒全員を起こし、廊下の両側に座らせました。そしてそのあいだを、第1監から第4監まで、戸板に載せたふたりの惨殺死体が見せしめのためにゆっくりと運ばれました。囚徒たちはあまりのむごい顛末(てんまつ)に言葉をなくし。恐れおののいたのでした。それからしばらく、脱走は絶えたといいます。
ふたりの遺体は、6月5日、納棺されて篠津山囚人墓地に埋葬されました。花山看守が殉職したあたりにはその後貯水池が造られ、看守の霊を慰める意味も込めて「花山貯水池」と呼ばれるようになりました。
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花山貯水池