もうひとつの北海道開拓史へ

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

もうひとつの北海道開拓史へ

道南などを除いて北海道は、ともすれば歴史が浅い土地であると思われがちです。しかしそれは事実ではありません。記録や文献が残る時代以降に限っても、本州やサハリン、中国大陸などとの密接な関わりの中で、この島でさまざまな営みが積み重ねられてきたことが伝えられています。そうした歴史の舞台は海岸線と河川の流域が中心であり、主な担い手は明治以前に先住していたアイヌ民族などでした。北海道の内陸に現在につながる和人中心のまちができたのは、多くは明治以降。例えば札幌市の開基は1869(明治2)年、旭川市は1890(明治23)年のことにすぎません。(今日では、明治以前の土地の営みとの連続性を重視するために、「開基」という言葉を「開拓」に置き換える自治体も増えています)。

 明治維新によって、それまで蝦夷地と呼ばれていた北の島が北海道と名づけられ、本州方面から大量の移民が送られてくるようになりました。移民には、国が旅費や生活費を助け、自分で開墾した土地は自分のものになると呼びかけて募った「募移民」や、生活に困窮した旧士族が中心になった「士族移民」、資金を出し合って開拓会社を作り、移住者を雇って開墾に当たらせる「結社移民」といった形態がありました。またほとんど徒手空拳で新天地に可能性をかける個人やグループも、少なくありませんでした。こうして北海道は、明治以降、それまでの歴史とは大きく異なる時代に入っていったのです。

 日本が近代国家として欧米列強と肩を並べていくためには、まず北海道の天然資源が必要でした。そしてロシアからの北の脅威にそなえるために人口を増やし、農業を広め、工業を起こすことが急務とされました。北海道の開拓は、近代日本が直面したいくつもの課題を解決するために、喫緊(きっきん)の大問題として進められたといえるでしょう。
 今日ふり返ってみると、開拓の形態もまた、大きくいくつかに分けられます。まず、先に述べた移住民による「移住民開拓」。そして、開墾のほかに北方防衛の役割をも担った、屯田兵による「屯田兵開拓」。そしてもうひとつ、重罪人として服役する囚徒をインフラ整備の労働力とした「監獄開拓」です。
 中でも囚徒による開拓は、移住民や屯田兵が入植できる基盤を作るために、人跡未踏の奥地に通じる道路を開削し、橋を架け、森を拓いた過酷で困難きわまりないものでした。滝川、深川、旭川といった、大河石狩川沿いに作られていったまちも、あるいは道東の拠点のひとつである北見なども、囚人たちの凄惨な労働によって作られた道路ができてはじめてうまれたまちなのです。こうした囚
たちを収監したのが、集治監と呼ばれる特別な監獄でした。

樺戸集治監 
開設当初の樺戸集治監

1881(明治14)年、北海道で最初の重罪人の収監施設である「樺戸集治監」が作られた月形町は、この監獄開拓の本拠地となったまち。さらに言えば月形町とは、そもそも監獄開拓の本拠地として作られたまちにほかなりません。
 樺戸集治監はこれまで、日本近代史の秘話や暗部が眠る場所として、もっぱら興味深いエピソードの集積として語られてきました。近代史に興味を持つ方にとっては、集治監に関わったたくさんの人物像に汲めども尽きぬ魅力を感じることでしょう。
 しかしいま月形町は、樺戸集治監を語る際に最も重要なのは、囚徒となった人々への哀悼と慰霊、そして感謝であると考えています。多くの移民たちの、そして屯田兵や企業家、官僚たちの仕事の基盤を作ったのは、実に集治監で厳しい労働に明け暮れた、名もない「罪人」たちだったのですから。
 1881(明治14)年から1919(大正8)年まで。集治監が設置されていた38 年間に、1046 名もの囚人が死亡しました。月形の、そして北海道の歩みはそのことの上に成り立っていることに、現代に生きる私たちはあらためて気づく必要があります。北海道が自らの基盤に据える「開拓者精神(フロンティアスピリット)」とは、こうした史実の上でいま新たな意味を持ちえるものではないでしょうか。


「月形の歩みから、北海道に大切なことが見えてくる」-。


 私たちはそんな想いをもって、これから月形町の歴史を綴りなおしてみたいと考えています。それは、過去に縛られることではなく、豊かな可能性をもったもうひとつの地域史を構想していく試みです。さらには、多様な過去を未来への豊かな基盤として耕していく、困難であるけれども希望に満ちた取り組みでもあると確信しています。


樺戸集治監(現月形樺戸博物館)