内乱の時代

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

内乱の時代

 1603(慶長8)年に徳川家康によって開かれた徳川幕府は、長い戦乱の世にピリオドを打ち、世界史でも特筆される平和で多様な社会を250年以上にもわたって築いていました。しかし19世紀半ば、ペリー来航(1853年)からいよいよ動き出した日本の開国と幕府終焉の流れは、1867(慶応3)年の大政奉還、国を二分した戊辰戦争(1868~69)などを経て、明治政府による近代国家の建設へと進展します。北海道では、戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争が新政府軍の勝利に終わり(1869年旧暦5月)、その直後(同年同7月)に、 北海道開拓をつかさどる開拓使が設置されました。それまでは蝦夷地と呼ばれていた北海道が日本の国家体制に組み込まれ、本州方面から多くの移民を迎え入れながら、欧米の文化と技術を取り入れた新しい歴史をつづることになったのです。


 大きな混乱とともにはじまった明治の世ですが、最も激しい変化にさらされたのは、支配層の座から落とされた武士階級でした(当時の人口約3000万人の5%あまり)。かつては世襲の俸禄(給料。主に米穀)を受け、名字帯刀ができる特権的身分にあった彼らですが、明治政府はそうした封建的社会制度を根底から作り直します。まず1869年(明治2)年、全国の藩主が土地と人民を朝廷にもどす版籍奉還が行われ、武士の大半が旧士族として、藩ではなく政府に属することになります。つづいて1871(明治4)年には廃藩置県。全国に270以上あった藩の体制がなくなり、行政の仕組みが中央政府に一元化されました。


 1876(明治9)には廃刀令が実施され、武士の魂ともいうべき刀が取り上げられました。またこの年から俸禄が全面廃止となり、これまでの土地・俸禄は取り上げられ、代わって「金禄公債証書」が支給されました。公債の利息で暮らしを立てるという目論見がありましたが、それだけで生計は成り立たず、一部の旧士族は政府や諸官庁、教員などの職に就きます。しかし大部分はそうした希望もかなえられず、慣れない商売でつまずき、「士族の商法」と揶揄されることもありました。


 大量の失業者と化した旧士族階級の中には、行き場を失って北海道の開拓移民となった人々も少なくありません。 1878(明治11)年、旧尾張藩主徳川慶勝が八雲に150万坪の下付を受けた徳川農場。 1880(明治13)年に旧長州藩主毛利元徳が着手した余市郡大江村510万坪の開墾。 1881(明治14)年、旧肥前藩主鍋島直大(なおひろ)の当別村高岡開墾(失敗に終わる)。 1883(明治16)年に旧加賀藩前田利嗣が取り組んだ岩内郡前田村(共和村)760万坪の開墾などは、いずれも旧藩主が家臣たちの救済のために行った大事業でした。また1875(明治8)年からはじまった屯田兵制度も、こうした旧士族授産の一環でした。授産とは、失業者などに仕事を与えて生計を立てさせることです。


 苦境に立たされた旧士族の中では、政府を主導した旧薩摩藩や長州藩のリーダーたちに対する不満も募っていました。
そうした動きを制御しようと維新後ほどなく構想されたのが、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが主導した征韓論です。西郷らは、鎖国下にあった朝鮮を旧士族を活用した軍事力によって開国させようとしました。しかし領土拡大よりもまだ内政を優先させるべきと考える岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの強い反対があり、政府内の激しい主導権争いの末、西郷たちは敗北。下野(官職を辞めて民間に下る)するにいたります。征韓論に端を発した、いわゆる「明治6年の政変」です。


 またこの年に断行された「地租改正」(租税制度の改革)によって、農民層にも地租や米価をめぐって不満が高まり、各地で大規模な一揆も頻発しました。世情にはおだやかならぬものが満ちていました。


 1874(明治7)年、江藤新平や島義勇(開拓使判官として札幌のまち割を最初に構想)をリーダーとして、佐賀で政府への大規模な反乱が起こります。旧士族たちの不満がいよいよ限界に達したのです。「佐賀の乱」をきっかけに、1876(明治9)年には、国学や神道を基本とした熊本の敬神党が「神風連の乱」を起こし、その直後に福岡県の秋月で旧秋月藩士の宮崎車之助らの「秋月の乱」が。これらに呼応して山口県の萩でも、倒幕の志士として活躍した前原一誠らによる「萩の乱」が続きました。


 そして1877(明治10)年2月。鹿児島で大規模な私学校を作り青年たちを訓導していた西郷隆盛が、学生らに押されてついに挙兵。半年以上にわたって、のちに「西南戦争」と呼ばれる激しい戦いを繰り広げます。このとき札幌の琴似屯田兵村にも出征の命が下りました。薩摩出身者が多かった屯田兵幹部には元同志と敵味方でまみえるつらい出撃でしたが、戊辰戦争で薩長を中心にした政府軍に敗れた会津や奥羽諸藩の出身者たちは、「主君の仇を鹿児島で」と奮い立ったといいます。


 各地でつづいた旧士族の反乱はいずれも政府に押さえ込まれ、生き残った首謀者たちは、重罪人のレッテルを貼られることになりました。こうして急増した政治犯を収容するために、こののち北海道に集治監が設置されることになるのです。